沖縄・名護1999-2006(その2)
[E:five]
辺野古沿岸域への新基地建設が、自然環境への壊滅的な影響や建設そのものに反対する人々の行動により、いよいよデッドロックに乗り上げるなか日米は米軍再編協議で計画の見直しを進めていた。
東開発の仲泊氏による辺野古のリーフ内を埋め立てる「浅瀬案」なども提案されるが、絶滅危惧種ジュゴンの餌場である海草藻場を全面的に埋め立てる案であり、何より辺野古集落により近接する酷い案で到底受入れられるものではなかった。
2005年9月18日、これまで様々な代替案に沈黙していた岸本建男名護市長は、琉球新報の単独取材に答え「浅瀬案」容認を示唆する(⇒9.19琉球新報記事)。
9月19日に行われた日米協議において、ローレス米国防副次官が「地元が支持する案」と浅瀬案を主張する根拠にされたことは報道で明らかになっている。名護市長の18日の新聞取材への示唆は、防衛省が主張していたとされる「陸上案」を阻止したいと考える立場から協議に影響を与える目的で成されたのは自明である。
同年9月26日、名護市議会において私の質問に答え、市長は公式に「浅瀬案」容認を表明(⇒9.26琉球新報記事)。市長表明に対し大野防衛長官は「名護市長の協力姿勢はありがたいが浅瀬案では解決に至らず」とコメント(⇒9.27琉球新報記事)。
この米軍再編協議の最終段階で、1999年当初から私が指摘し続けた「軍民共用」「使用協定」の問題点を市長自ら認め【条件】を困難視する。名護市が砦の如く見せかけていた【条件】は完全に瓦解した。(⇒9.27琉球新報「透視鏡」記事)
日米協議は、辺野古内陸案と浅瀬案で鬩ぎあい、シュワブ兵舎部分と埋立てを伴う拡大案で合意された。
[E:six]
米軍再編合意に伴い、2006年に閣議決定がなされ1999年の閣議決定は廃止される。
政府と沖縄側がどのような協議をしたか詳細は知らないが、2006年度は、北部振興等が継続されることになった。
この閣議決定がなされるには、米軍再編協議による「拡大案」に名護市を始めとする沖縄側の関係自治体の合意をとりつける必要がある。岸本建男の後継である島袋吉和名護市長は、滑走路を二つに増やす「V字案」で政府と合意する。
その合意には、北部市町村の首長達も参加していた。防衛庁での記者会見の席上で、宮城茂・東村長は「建前と本音を使い分ける時代は過ぎた」と基地建設と振興策のリンクを明言する。(⇒防衛省:平成18年4月7日記者会見)
沖縄における「振興」は、1972年の施政権の返還以来、沖縄戦の惨禍及び米軍支配等の長きに渡る沖縄の歴史的経緯を踏まえ行われてきた。政府の意思はどうあれ、沖縄側から「振興と基地」が明確に是認されるところまで来た。
[E:seven]
沖縄側のそのような反応と同時に、日本国政府の方針も大きく転換した。基地建設に係る振興策は「再編交付金」という制度が新設された。
再編事業の進捗に応じて段階的に交付金が支給されるシステムである。必要条件はあるが、最終的に支給するしないは防衛相が「確実な実施に資するため必要」と認める判断で決せられる。
迷惑施設を受入れる自治体への見返りの「賄賂」としての側面があるのは否めないが、「再編交付金」制度の酷さは、関係自治体に再編を拒否する自由はなく、反対すれば事業は行われるが「賄賂」は与えられないとするものである。これは「アメとムチ」ではなく「ムチ」以外の何者でもない
支給額等を決定する施行規則では、当該自治体の首長が反対運動等の排斥に協力しない(まさに99年閣議決定以降の辺野古現地における沖縄県・名護市の態度がそうだと防衛省は主張するだろう)とか非協力的と防衛省が判断すれば計画点数を減ずる規定まである。
このような制度であることを承知の上で、自治体側が学校施設の建設までこの事業メニューで行おうとすること(名護市の事例)は自治体側も批判されなければならないが、問題は、このような制度そのものにある。「再編交付金」制度は政府・防衛省の暴走ともいえる制度であり見直されるべきである。
[E:eight]
1999年の閣議決定から始まる「基地と振興」の相克の中で、様々な問題点が惹起してきたが、2006年の閣議決定では「再編交付金」という形で基地とリンクした「振興」の本質を剥き出しにした。
名護市における様々な振興策が功奏しなかったのは、突然政治的に降ってきた振興策であり【主体的な振興計画が不在】であったことと、つかみ金のような予算を消化するために【予算消化の悪弊】が出た事と従来の投資的経費の使途である【箱物主体の限界】だろう。
沖縄県や名護市は基地を受入れるための条件を提示したが、そのような条件はことごとく反故にされ踏み躙られた。なによりも不平等の源流である【地位協定の改定】すらまともに向き合わない政府がある限り、条件を提示し新基地を受入れることなど無理だという沖縄の現実がある。
1999年の閣議決定における「軍民共用」は稲嶺恵一沖縄県知事の発案であった。民間部分をつけることで「県民の財産」と呼ぶ浅薄なアイディアで軍事基地の本質は覆い隠せるものではない。辺野古沿岸域の自然環境は、キャンプシュワブの存在も起因し1972年以降の振興開発から免れた良好な自然環境である。立地に無理がありすぎた。
なによりも、ここは日本政府、そして沖縄県外の人々には理解に苦しむところかもしれないが、基地建設に反対する人々を保守市政県政といえども行政権力を使い強行的に排斥できる政治環境に沖縄はない。
岸本建男名護市長が2005年9月に行った「日本政府が執行不可能と判断すれば(普天間は)県外に移してもらうしかない」という発言を、新聞記事は「げたを預けた」と表現しているが、それは無責任の表出ではなく、沖縄への海兵隊新基地建設の受入れは沖縄が主体的に望んで行っていることではないという厳然たる事実の表出であった。岸本建男名護市長は健康を害し翌年の市長選挙には立候補せず引退し、闘病の末鬼籍に入った。
政府は名護市への新基地建設を諦めてはいないどころか、現在も進行中である。2010年、新基地建設に反対する名護市長が誕生した、再選した仲井真県知事ですらこれまでの態度を改め「県外移設」を公約にしている。大切なのは、沖縄県内に海兵隊の新基地を造りだす事を拒否する沖縄県民の意思と行動である。政府が強攻策を講じることは考えにくいが、「ポスト沖振計」などを梃子に仲井真県政を懐柔していく(世論の軟化を図る)のは火をみるより明らかである。1999-2006年の閣議決定のありよう、そしてそれがもたらしたことを真摯に自らのものとし、未来を切り拓くためには、これまでの「振興」信仰から自らを解き放ち、自前の計画・構造を持つことが重要である。
[E:nine]
1972年に日本国に施政権が返還されて以降、沖縄は格差是正の掛け声のもと「振興開発体制」のもとにあった。三次にわたる振計、そして直近の10年の沖振計体制。それとほとんど同時に始まった、名護市への集中的な振興策ラッシュ。
私たちは、この流れの中で、どのように「振興」信仰を脱却し自治を成すことができるだろうか。1973年当時、沖縄における振興開発体制の始まりに真っ向から異を唱えた名護市の「逆格差論」(総合計画基本構想)は注目に値する。
名護市の基本構想「逆格差論」は当時の海洋博の土地投機ラッシュやその後の不況から名護市を守った。「逆格差論」の行った「地域主義」の提起は、全総の開発志向が吹き荒れる中で先駆的画期的なものであった。その構想の中で、実現できなかった大きなものに、構想を実現するための仕組み「55人委員会」の設立がある。地域計画は計画でしかない、地域の現実の中で生きる人々により叩かれ生きられ姿を変えていく循環があって始めて意味を持つ。
沖縄の明日、未来にとって、1999-2006と政府そして政府に呼応する行政の施策に振り回され戦ってきた経験から、ポスト沖振計がこれまでの「振興」信仰から脱却したかたちで県民主体で成されることがとても重要だと思います。
長い時間、ありがとうございました。
[E:end]
近日中に、必要なところはリンクを貼るなどします。エントリにあげながら思い返していたが、2005年9月に、私はなんだか緊張の糸が切れたというか、自身の活動についてメルクマールだったんぢゃないかと思います。建男さんがお亡くなりになって以降は言わずもがなですが。