みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

2011年はじまる

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おそらく変調したり、リズムを変えたり、その時々に応じて拙い試行錯誤がなされるが、私は同じことをリフレインしているだけである。2010年はそのことに気付かされる一年でもあった。

政治的には、名護市において新基地建設に反対する市長が誕生し、1997年の市民投票における結果が自治体政策に反映される端緒を得た。もとより十年余を経て、市民の意思も状況も変化し続けているが、カタチ的にはこれをもってひとつの決着をみた。しかしこれは終焉ではなく始まりであるのは自明で、これから様々な事柄が起こる。昨年末に顕現化した「再編交付金」の問題も、すったもんだあったが、市長が予算計上しないことを決断しあるべき姿に近づいている。名護市は、この十年余を経験とし「自治」をまっとうな姿に立て直さなければならない。新基地建設に反対するには、事業実施を目指す政府と対決しなければならないが、そのための方策をどのようにしていくのか、可能な限り市民に情報開示し市民と共に「自治」を成す努力をしてほしい。

県知事選挙においては、残念ながら新基地を明確に拒否した伊波氏は落選してしまったが、仲井真知事が「県外移設」を公約せざる得ないところまで有権者の意識はあがってきた。この十年余、県民の世論調査では反対が多数を占めるが、選挙としては「条件付賛成」「辺野古移設推進」の保守陣営が勝利していた。その保守陣営が「県外移設」を言わざる得ないところまで来たのは、県民の民意の勝利だともいえるが(いいたいが)はたしてほんとうにそうなのかは今後の仲井真知事および県内保守(自公)陣営の動向及び県民世論の反応をみなければなんとも言いがたい。政治的には、仲井真氏は「県外移設」を主張することで民主党政権を追い詰め、解散総選挙で自公の政権復活を目論むことだってありえる話である。自公が沖縄及び沖縄県民の願いを受け入れ「県外移設」を実行するなど想像もできないことであり、県民にとっては政治的に厳しい状況が続いているだけである。

98年から06年まで私は名護市において故岸本建男名護市長と戦ってきたが、それは彼(ら)の「条件付賛成」という妥協的打算的政治権力への阿りに対する戦いであった。2005年の米軍再編の渦中で、彼(ら)の条件は日米政府に一顧だにされず雲散霧消した。その後のV字案などの顛末は、島袋前市長や末松氏らには悪いが、愚の骨頂のダメ押しでしかなかった。2006年の岸本建男氏の死により、この一連の経緯はしっかりと総括されることなく今日に至っている。

私の懸念はささやかなものだが、現名護市長が選挙戦の最中に「岸本氏は基地を造るつもりはなかった」と公言していることなどに顕れている、この経緯の反省なき状況では、どんなに威勢のいいスローガンを掲げても同じ過ちが繰り返される可能性は消えないということである。それが米軍再編交付金などの問題にも顕れており、昨年12月29日に琉球新報報道(⇒リンク)に接するまで私の憂鬱は膨れ上がるばかりであった。

名護市長稲嶺進氏は信頼するに足る人である。職場のよき先輩で上司でもあった故岸本氏への稲嶺氏の愛惜もわかる。そのことを充分認識してなお、稲嶺氏が岸本氏の功罪を明確に認識し、名護市まちづくりを進めていくことこそが重要だとおもう。そうすることでしか岸本氏は浮かばれない。

おそらく、1999年に稲嶺県知事と岸本名護市長が始めたこと、そのことの2005年の挫折、それらを総括することなく、今日及び今後の状況に対峙していくことはできない。あのときも、三次振計の終焉を向かえポスト三次振計が問題になっていた。しかし「振興(策)」は必要ということで、保守も革新もそのことを政治的イシューにすることはしなかった。そういう状況で、新基地建設の「条件付推進」は整備されていった。

沖縄は現実の行政の基調になっている「振興」という信仰から脱却することなく、基地問題を解決することはできない。私は一身上の都合から、今春、戻ることを想定せず沖縄を離れるが、この10年の沖振計がどのように総括され、ポスト沖振計がどのように構築されるのか、沖縄を離れても注視していたい。

沖縄を離れれば、現在よりは自分のための時間をつくれそうなので、この数年リフレインし続けていることを見つめなおし書く(思考する)ようにしたいとおもっている。時事的な問題についてはブログ更新というカタチをとるとおもいますが、あまり期待しないで時々のぞいてください。個人的には新基地建設に反対し活動する人々の情報発信も豊かになり、「なごなぐ雑記」で私が発信することの意義も相対的に縮小し、このままフェードアウトしてもいいかと思っているところです。

終の栖は知らず、旅は続く。

2011年が、みなさまにとって、いい年でありますように。

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