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宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「沖縄戦の悲惨さ」について

Neko ときどきコメントをいただく、“「猫の教室」平和のために小さな声を集めよう”の眠り猫さんが、沖縄戦に関するエントリーをあげられた。

沖縄戦の悲惨さと、沖縄県民への差別意識の存在
(2008年06月25日)

いくつか気になる記述があったので、コメントしようと思ったのだが、長くなったので、エントリーを書きトラックバックすることにした。

ほぼ私信だが、沖縄戦に関して理解が広がればうれしいので、興味のある方はお読みください。
その際には、あわせて上記の眠り猫さんのエントリーもお読みください。

眠り猫さん、ご苦労様です。
沖縄戦の認識について、誤解を招く表現があるのと事実誤認ではないかと思われるところがあったものですから、いくつか気付いたところを指摘させていただきます。

これを皮切りに、沖縄本島を囲むようにある、小さな島がいくつか占領され、そこに飛行場や砲撃部隊がおかれ、沖縄本島攻撃の態勢が整います。

4月1日の沖縄本島上陸以前は、慶良間列島占領以外に占領され飛行場や砲撃部隊が置かれた島はない(慶良間列島でもそれはなかった)はずです。

本島攻撃の態勢は、3月23日に沖縄島南西海域の布陣に着いた1,300隻の米軍艦隊からの艦砲射撃と艦載機等による空爆です。

本島にいた日本軍は、防御陣地を敷き、上陸に備えますが、度重なる陽動作戦を受け、混乱し、首里城の北部の北谷町方面からの上陸攻撃は予測できないままに、連合国の上陸を許します。

日本軍は戦略持久作戦をとっていたため、米軍は無血上陸をしました。北谷方面(読谷~北谷の海岸)からの上陸攻撃は予測できないままというのは誤りではないでしょうか。

日本軍は内に誘い込み打撃を与える作戦をとり、米軍上陸地点から首里の司令部へと至るライン(宜野湾市等)に主力を配備し、「嘉数の戦い」や「シュガーローフの戦い」などでの日米の壮絶な戦闘がありました。

このような布陣は偶然だったのでしょうか、1913年~14年にかけて九州の第六師団混成部隊は沖縄で始めての軍事演習を行ない、演習内容は敵が宜野湾街道(嘉数高台)を経て安謝付近(シュガーローフヒル)から首里城方面に進撃してくるというものだったようです。まさに、沖縄戦の展開です。軍事的な展開におけるある種のセオリーがあるのかもしれませんね。

首里城南部の人口の多い地帯

那覇市以南の南部各村は特に人口の多い地帯ではありません。
人口の多い地帯を問題にするなら、上陸地点である中部から南部(那覇首里含む)一帯がそうです。
首里から摩文仁へと司令部が移転して以降の住民犠牲の多さに着目なさりたいのかもしれませんが、猛攻する米軍に迫られ、日本軍の敗走と同じように南に追い詰められていった多くの住民たちと考えるべきでしょうね。

予測に反して、北側からの攻撃を受けた日本軍は、抗戦しますが敗北し、首里城を奪われます。

眠り猫さんが、32軍がどのような予測をしていたとお考えなのかわからないので、なんともいえませんが、先に紹介したように戦略的持久作戦首里までのラインで攻防したが、彼我の戦力の違いは圧倒的であり首里が陥ちるのは時間の問題だったのでしょう。

物量の違いを考えれば、日本軍は地の利を活かして相当な善戦をしたとはいえると思います。しかし、その作戦のおかげで幾多の住民が巻き込まれ死んでいくことになりました。

今の那覇から糸満市まで、日本軍は民間人を巻き込み、時に陣地設営のために駆り出し、約2か月にわたって抗戦を続けますが、…

5月22日に首里を放棄し司令部を南部に移してから、牛島司令官が自殺するまで一ヶ月です。
地獄の一ヶ月ですが、眠り猫さんがご指摘のような事態は、米軍上陸直後から戦線の拡大を伴って各地で起こっていることです。

民間人を殺害したとか、陣地やガマ(洞窟)から、砲弾の雨の中に民間人を追い出した、などの悲惨な話が伝わっていますが、確認は得られていません。

「確認」をする手段をどうするのか、ある種の方々のように「命令書」や官製資料などに記載されているかなどを言うのであれば、軍部はあらゆる資料を焼き捨てたし沖縄では土地台帳も何もかもが戦禍で消えたのであり、残っているはずがないんではないでしょうか。

生き残った住民や関係者のオーラルヒストリーは様々な形で記録されており、貴重な資料となっています(現在進行形であり、関係者も高齢になっており、オーラルヒストリーの記録はこれからますます重要である)。それらの資料でご指摘の件についてはいくらでも「確認」できます。

沖縄県民を差別していたのではないかと思わせる話

司令官の命令や指針の文書等で、スパイ防止が留意され、沖縄語(うちなーぐち)を喋る県民(ないしは米軍に投降した県民)はスパイと目されて惨殺されたのは事実です。
沖縄戦のみではなく、植民地帝国日本において、沖縄県民が、本土の人間と違う位相でみられていた(差別されていた)のは、疑う余地のない歴史的事実です。

沖縄を、本土決戦の時間を稼ぐための捨石にしたという意見には、若干の疑問があります。なぜならば、あの時点としては、最高の装備の7万もの部隊を沖縄に配備していた

これは明らかに事実誤認です。32軍の中核先鋭部隊である第9師団は、米軍上陸前年に台湾に配備され、替わりの部隊は送られてきませんでした。

32軍は米軍上陸の前年末に兵力の三分の一を欠き、そのために1945年1月から「根こそぎ動員」が実施されたのです。4月には米軍上陸です。最高の装備などではなく、装備も乏しいなかで訓練もまともに施さずに一般県民を駆り立て前線に立たせたのです。『沖縄県民斯ク戦エリ』です。

戦艦大和を出動させた「菊水作戦」(神風特攻隊)をして、沖縄戦は「捨石」ではなかったという話もありますが、本土決戦を引き伸ばす、持久作戦であったことに異論はないはずです。
その持久作戦により地獄をみた側、累々たる屍の山にされた側からは「捨石」としかいえないものだと思います。
(最近は、これらを名誉ある尊厳死の如く言い換えたい人々がいるのはわかります)

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以上、気になるところをいくつか指摘させていただき、所見を述べました。

沖縄戦でなにがあったのかを、眠り猫さんのように多くの方が関心を持ち、自分で考え、そこからいまにつながる何かをつかみだしていくことが重要だと思います。

私も、そのような心持ちで、新たに勉強しなおしております。

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