Déjà vu
30時間近く起きて、数時間断続的に睡眠をとり、また30時間近く起きるという生活をして、体内時計は大いに混乱させられていた。ジェット機に乗って東西を移動すると起こる時間帯域変化症候群が、こんな小さな街に居ながらにして我が身を襲っていた。そんなときに、呼び出されて酒を飲んだものだから、神経は異常に昂ぶっていた。できるだけ平静にしていようとおとなしくしていたが、酒の中に溶け込んだ経口的に摂取する脱法ドラッグが効いてきて、徐々に感覚がおかしくなる。Déjà vuだらけで、やがて幽体離脱して、自分をみている自分がいる。「なんてこった」俺は舌打ちして、既視感と闘っていた。
「西側の住民には東側のことがリアルに感じられないんだよね」と解説してくれる俺とひとつしか違わないが「先輩」と呼ばれることをあたりまえに思っているおっさんに、俺は忍耐を試されている。「なんてこった、10年前に聴いたセリフじゃないかこれは。10年という時間の流れ、堆積は、このおっさんの頭の中では、完全に止まり腐臭を放っていやがる」俺は心の中で、何かが切れるのを感じた。人口が多い西側住民の遺志がなければ、住民投票で“反対”が過半数を上回ることはなかった。そんな単純な事実を、このおっさんは無視している。
「政治も10年もたてば変化するんだよ」知ったかぶりのおっさんは、ご高説を垂れるが、住民投票の数ヵ月後の選挙で真逆の首長を当選させるという変化が あった。10年で変化したのではない、10年もそれが変化せずにきたんだ。しかし、10年前にも俺はこんな連中と、こんな議論をしていなかったか。 Déjà vuは、気分をいっそう滅入らせる。ここは空気が悪い。こんな空気の底ではニコンチンでも混ぜないと息ができない。俺は煙を吸いに外に出た。
外は雨が降っていた。見上げると、『幼年期の終わり』に出てくるような巨大な円盤状の宇宙船がこの街の上空を覆っている。宇宙船から出されるホログラムで、 市民はいつもと変わらぬ青空がそこに広がっていると信じ込んでいる。それは虚である。しかし、そのことを知ることになんの意味がある。人々は真実を求めて いるのではない、青空を守りたいと思っているだけだ。青空。日暮れて辿る我が家の細道。充分じゃないか、俺は宇宙船をながめながら、口笛を吹いた。 「よっ、そこからの眺めはどうだい」俺は声をかける。しかし、宇宙船から俺たちが見えるわけはない。
酒座に戻るとおっさんは眠っていた。新聞屋も半分寝ていた。写真家だけが起きていたが、俺にはもう議論する気力もバカ話を楽しむやさしさも失せていた。時間帯域変化症候群でおかしくなった感覚が、血管の中を流れるアルコールのスピードを加速する。俺が摂取した酒は血液に混ざり、体中に張り巡らされた全長99779.328kmの血管を猛スピードで駆け巡っている。俺が12時間もかかる脳腫瘍の手術をしたときに、不幸なことに外科医が視神経を触り、右側だけが見えなくなる視野狭窄が起こった。
腫瘍は脳幹と大脳小脳のつなぎめという難しい位置にあったので、脳を開いて腫瘍を掻き出し閉じて生きている。それだけでラッキーだった。二人の最愛の我が子が俺の青空だった。俺は戻ってこれた。それだけでラッキーだった。だれも視野狭窄ごときをなんとも思わなかった。しかし、俺の体内ではいっしょうけんめい仕事が行なわれていた。左右の眼球から出ている視神経の束の中の、右視野の神経伝達物質が受容体に結合されない状態が数週間続いた。すると日頃は使われていないシナプスが、右視野の神経伝達物質を放出しはじめる。受容体に結合されない放出を続けること数週間。ある日、突然、神経伝達物質を受容体が受け容れた。俺の視野狭窄は治癒した。あきらめちゃいけないね。俺の右側の視野は、そのけなげなシナプスの努力の賜物である。感謝している。そんなことを俺は思い出していたが、血管を猛スピードで駆け巡るアルコールのおかげで、ろれつもまわらず、言葉は口をついて出てこない。それに気力もやさしさも失せていたので、俺は早々とその場を立ち去ることにした。
雨が降っていた。上空には宇宙船などなく雨雲。地球を取り巻く薄い空気の皮膜。その空気の底で、俺たちはのたうちまわっている。下卑た政治屋と冷たい官僚たち、身を守るための嘘を上手につく人々、正直な金の亡者たち。俺は幽体離脱から戻ると、二日酔いで軽いウツ状態。仕事もできる頭ではないので、夕べのことを思い出してブログの記事を書き飛ばしている。
あきらめないこと。夢をみないこと。現実を凝視すること。リアルは決してリアルではない。それは虚でしかない。死を想い言葉を探す人のように、出口を探し続ける。少しずつ正気が戻ってきた。もうじき、仕事にかかれるだろう。夕べからの雨もあがった。
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私の青空【My BLUE HEAVEN】
[作詞]GEORGE WHITING [訳詞]堀内敬三 [作曲]WALTER DONALDSON
夕暮れに仰ぎ見る輝く青空
日暮れて辿るはわが家の細道
せまいながらも楽しい我家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ私の青空
日暮れて辿るはわが家の細道
せまいながらも楽しい我家
愛の灯影のさすところ
恋しい家こそ私の青空