宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

県知事選や諸々のこと徒然に

今日はいい天気。
少し考えていることを徒然と書いておく。

県知事選挙のこと

日米両政府の共同声明や諸々の動向を考えれば、11月の県知事選挙で辺野古新基地建設を拒否する県民意思を示すことは最重要課題。時流の流れは仲井眞vs翁長に集約されていくだろう。

問題は一義的には翁長で辺野古新基地建設は拒否できるかである。翁長那覇市長の政治思想信条や諸々を勘案しつつも、この県知事選挙にどのような姿勢で臨むのかが明確にされ、それを我々は持ってしてしか判断できない。

そういう意味では、県知事選挙で勝利することの重要性に鑑み前のめりになるが、我々はしっかりとした判断材料を現在持ち合わせているわけではない。

歴とした保守である翁長を担ぐことで、革新は大きな物を失うことになるのかもしれない。それよりも「沖縄が」得る物の大きさを考え、現在の状況に真摯に向き合おうとしているのだと理解したい。

ここで問題になるのは、得る物の大きさだ。

イモハダシ論が来る

現在の状況は1960年代から70年代にかけての「本土復帰」に関する動向に匹敵すべき沖縄の命運がかかっている。日米両政府は既に普天間移設は米軍プレゼンスの「長期的持続可能」を確かなものとすると歌っている。これを沖縄が拒否できなければ、「本土復帰」の際に「基地のない島」を目指した沖縄自身による日米両政府への隷従の完成である。

本土復帰」のときに、〈イモハダシ論〉で復帰に反対した自民党保守勢力が、今般の状況では政府と同じ立ち位置から普天間の危険性除去を言い募り辺野古新基地建設を容認する。おそらく11月の県知事選挙では現代版〈イモハダシ論〉が噴出するだろう。

メディアや(新基地に反対する)民衆から仲井眞県知事の埋立承認に逆風が吹く中、県内の8市長、4町村長、1議長が参加して仲井眞知事を激励する会合が今月8日に持たれた。報道によると首長らが知事に対して感謝することは次の三点である。

3点目など、なんの目処も立っていないどころか、米国は辺野古新基地建設の完成年次との関係で5年は無理だと言っている。これは辺野古新基地建設への引っ越しを、前倒しに誇張してみせたブラフでしかない。だれもがわかっている。とすると、結局は首長たちの感謝は、前2点にのみある。

首長たちや仲井眞らは確信している。それなくして沖縄はどのようにビジョンを描けるのか、沖縄は〈イモハダシ〉になってやっていけるのかと。

振興に対する信仰からの解放は

沖縄の、振興に対する信仰はいささかも揺らいでいない。そう思って、その信仰からどのように人々を覚醒させるのか/人々と共に覚醒するのか、県知事選挙の論戦をどのように組み立ててゆくのか。「誇り」や「アイデンティティ」という呪文でそれが解けるなら、そんなに楽な話はない。

私はやっぱり、1990年代末から2000年代にかけての「条件付受入れ」していた沖縄を忘れることはできない。あそこから何がどのように変わって、オール沖縄での辺野古新基地反対になったのか。弱さも強さも、すべてあの時代に顕現していたし、それは何一つ自力で克服できていないのではないか、と思えてならない。

振興に対する信仰から解放されるには、その中にどっぷり浸かり振興策を喰ってきた名護市の1999年以来の変遷を考えることは大いに参考になる。

名護市が現在「拒否」している(できている)理由は「誇り」だけではない、振興策など実際の地域振興にまともに寄与しなかった成功しなかったことの結果である。とても単純な話で、金や制度さえあれば地域振興がなされるのではない。

「沖縄21世紀ビジョン」に描いた将来像を目指すことに必要なモノコトはなんだ。逆に「沖縄21世紀ビジョン」の将来像を損ねるモノコトはなんだ。

沖縄の自治に関する研究者や、政治社会の動向の研究者や、地域づくりに関わる議員や市民、すべての民が、真摯にモノコトに向き合い、とりあえずここを突破しなければ明日はない。(ぐらいのつもりで考えるべきじゃないかな)

そういう意味では、翁長那覇市長の市政運営は、私には新自由主義的自治体経営の手法をポピュリズム的に取り入れたものとしか印象がない。辺野古新基地建設には「誇り」や「アイデンティティ」で反対するかもしれないが、それ以外の県政の進む方向性がよくみえてこない。その点では、まだまだ視界不良。

 

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このあとすぐ騒ぎ出す。遊べ飯くれの四匹。