宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「集団自決」教科書問題雑感

沖縄では市民団体等はもちろんのこと、市町村議会のみならず県議会も、タイムスや新報のみならずNHKなどの“官報”でさえも、学校ではこどもたちが地域の方々から体験談を聞いたり学習し発表し、彫刻家は高校生と共同作業で沖縄戦に関する自身の長大な作品の最終場面を創り出し、先人たちが、生き残ったものたちが侮蔑されることに創造的に抵抗している。
民衆を巻き込んだ地獄の戦線における軍命の有無の、戦後の混乱や時の流れを経た確認し難さにつけこみ、地獄そのものとして民衆を襲った「集団自決」から日本軍の関与を消し去ろうという「国家」及び「国家主義者」の恥ずべき野望は許されてはならない。

確かに、日本国の教科書検定という制度は行なわれたかもしれない。現在、明らかになっていることは、検定で新たに意見が付された根拠は「軍命の有無を争う訴訟が提起されている」という事実だけであり、それは客観的学術的事実の発見でも学説変更でもない。さらに、文科省職員であるところの教科書調査官・村瀬信一が本件の担当調査官であっただろうことと、彼はあの「つくる会」の教科書をも執筆、監修した伊藤隆氏と師弟関係であり、その教科書が検定合格した2005年時の担当調査官でもあったということである。

日本政府は、検定に係る中身を秘密にしつつ、諸外国及び国民には、検定審議会の存在をして中立公正だと喧伝してきた。外務省のホームページにさえ、その仕組みを掲載し説明しているほどである。いま、まさに、その説明が崩れ去ったのである。

6月14日付けの米国ワシントンポストに「従軍慰安婦(性奴隷)強制文書否定広告」が、自由民主党議員29名、民主党議員13名、無所属議員2名、及び政治評論家ら5名の発起人により掲載された。

幾たびも流布し否定されてきたという事柄を持ち出し大金をかけた意見広告は、彼らが狙ったであろう米国下院外交委員会での「従軍慰安婦問題での対日謝罪要求決議」を牽制することはできず、逆効果で賛成議員を増やし可決濃厚となっているという。

今回の歴史教科書における沖縄戦の「集団自決」問題から日本軍関与を削除する動きは、同じ精神構造から出発している。歴史の事実から目をそらすことで、自虐的ではない誇りとやらを取り戻そうとする幼稚な精神である。その幼稚な精神こそ、自虐的以外の何ものでもない。

我々に必要なものはなんなのか、我々はもう知っているはずである。
歴史から学ぶべきことは、敗者を無き者とする勝者の凱旋に感情移入することではなく、小さき声を聴き、虐げられたものたちの声を聴き、今を生きるものとして謝罪すべきは謝罪し共に生きる地平を切り開いていく可能性を探し求めていくことこそが必要なのだ。アベ政権の行なう強行採決三昧など、その対極にある姿勢である。

何度謝罪すればいい、などというレベルの問題ではない。心に闇を持たない人はいない、負の部分のない歴史などない、闇を自らのものとして全き自らを希求し彷徨する求道者のように生きるしかない。

どのような工作をしても、どのような強権をもってしても、沖縄戦における民衆の「集団自決」を国体護持のための尊い自発的犠牲などとすることはできない。「つくる会」も「日本教育再生機構」も、その他の野望をもつみなさまも、あきらめるべきである。

何が起こっているのかを、仕事の合間の短い時間だが集中的に考えた。私は決して、こんなことを容認しないし、容認しない沖縄の民が大勢いることをよく知っている。そして、このような国家及び国家主義の策動に対して、心より怒りを持って共感してくれる人々が大勢いることを。

これは私がずっと名護市に住み関与し続けている新基地建設問題と同じ地平にあり、沖縄をどのように政府が位置づけているか、沖縄の精神はどのように変質させられているか、この国はどこに向かおうとしているのかという問題である。

私は決してあきらめない。

ニヘーデービタン
ウートート

「集団自決」の犠牲者には小さな赤ん坊もいる。赤ん坊が「自決」できるわけはなく、「集団死」とする言い方もあるようだ が、私としては「集団死」ではペストのように人為的ではない死をも連想させる。適切な言葉を見出せず括弧で括り「集団自決」としつづけたことをおことわりしてお く。

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どうせ徹夜だと、すっかり夜型になった仕事も明日には終わる。事務所で探し物をしていたら、1995年に私が撮影し焼いた長女(9ヶ月)のモノクロ写真が出てきた。私の頭の中で、脳腫瘍が育っていた頃である。大人はこんなことでいいの?と問いかけているよう、…すみませんである。
1995sango