名護市長選挙2018の報告
辺野古新規建設の問題を大きく抱えさせられる名護市の市長選挙(1月28日告示、2月4日投開票)が行われた、結果は新基地建設に反対する現職の稲嶺進が日本国政権与党である自民党公明党等が推す元市議の渡具知武豊に3458票差をつけられ敗北した。新基地建設を進める政府と親和性の高い名護市長の誕生である。
筆者は2002年の名護市長選挙で候補者として新基地建設反対の立場で、条件付き賛成で軍民共用空港計画を政府と進めていた現職市長と戦い敗れた経験がある。現在は名護市を離れ、アクチュアルな政治とは一線を画し一般市民として生活する身だが、辺野古新基地建設に反対する立場を堅持し生きている。2018年の名護市長選を概括し報告する。
結果
名護市長選挙得票数
渡具知武豊 20,389票
稲嶺 進 16,931票
当日有権者総数 46,372人
投票総数 37,524票(うち期日前投票21,660票) 無効票204票
投票率 76.92%(内期日前投票57.72%)
結果の概説
投票率は前回市長選挙より0.21ポイント上回っており、名護市における市長選挙の投票率として低いとはいえない。特筆すべきは告示後投票日までの間に投票が行われる期日前投票が、投票日当日の投票より上回っている。自民党公明党などの組織力のある政党が積極的に期日前投票に取り組んでおり、1月にあった南城市長選挙でもそうだったが、渡具知武豊陣営は支援者支持者(個人及び企業等の団体)に期日前投票をおこなった総数の報告まで求めている。憲法および公職選挙法で保障された投票の秘密、投票の自由を侵害する行為に抵触する可能性がある。企業団体等においては社長など社員に対する影響力を持つ人物による投票の強要になりかねない。その経営者らに対して、国会議員を通じて政権が徹底的な圧力をかけた。異常なまでの期日前投票の伸びは、選挙制度のありようの問題を浮かび上がらせている。
また、期日前および投票日のマスメディアによる選挙民に対する出口調査では、10代(選挙法が改正され18歳以上が投票する初めての市長選挙だった。従前は二十歳以上)から50代までの有権者が渡具知武豊へ投票し、60代から90代までの高齢者が稲嶺進へ投票している傾向が表れ、世代別は明らかではないが投票者の6割以上が基地建設に反対しているという調査結果が出ている。渡具知武豊候補は、辺野古新基地建設への明確な意思を示さず政府との協調により財源を獲得し地域振興を図ると主張し、稲嶺進候補は、未来の名護市の子どもたちのために辺野古新基地建設に反対し阻止することを主張していた。出口調査と投票結果からは、基地建設には反対だが、政府と協調し財源を得て地域振興を望むという有権者のおもいがみえる。
市長選挙の変遷
1996年12月のSACO(Special Action Committee on Okinawa)最終報告により日米合意された普天間飛行場返還に伴う代替施設の予定地として、名護市は1997年に政府により名指しされ、それから今日まで建設予定地として同問題に翻弄され続けてきた。
1997年12月に筆者が市民のひとりとして基地建設反対派の代表を務めた名護市民投票が行われ、反対が過半を上回るという結果を得たが、当時の名護市長(自民党系)比嘉鉄也が中心になって条件付き賛成運動を展開したことにより、いわゆる基地建設を政府からの地域振興資金等を得て条件付きで認めようという勢力の台頭を招いた。市民投票直後に、比嘉鉄也名護市長は、反対の結果を裏切り新基地建設受け入れを表明し辞任した。翌、1998年2月の市長選挙から今日までの推移をみる。
◆1998年 条件付き賛成派の勝利・反対派の敗北
名護市の条件付き賛成派は辞職した比嘉鉄也の後継者として当時の市助役・岸本建男を擁立する。反対派は当時革新系の沖縄県議会議員であった玉城義和を擁立する。そして市民投票で反対派の代表であった筆者をセット戦術と称し市議補欠選挙に擁立する。市議補欠選挙は無投票で当選をみたが、市長選は、激戦の末、名護市として基地建設問題についての判断は市民投票と前市長の表明で決着が着いていると「凍結」を宣言し、後は沖縄県知事の判断だと主張した岸本建男が、反対を主張する玉城義和を制し当選した。
その年の県知事選挙では革新系現職の大田昌秀が、保守系の稲嶺惠一に敗れ落選した。そして1999年に稲嶺県知事が普天間代替施設を軍民共用空港、15年使用期限などの条件付きで受け入れる方針を示し、岸本建男名護市長が県知事の条件も入れた7つの条件を付して受け入れ表明した。それら沖縄側からの条件を入れて、政府は普天間飛行場代替施設の基本方針等を閣議決定する。
◆2002年 条件付き賛成派の勝利・反対派の敗北
1999年に沖縄が条件付きで受け入れ表明して以降、名護市が存する沖縄島北部の自治体へ10年間で総額1千億円を投下する北部振興事業が始まり、2000年7月には第26回主要国首脳会議(G8サミット)が沖縄で開催されるなどがあった。その後、日本政府関係機関と沖縄県知事・名護市長をはじめとした沖縄側関係者による軍民共用空港の基本計画案に関する協議等が進行するなかで、市長選が行われたが、現職の岸本建男が新人の基地建設反対を主張し基地関連予算に頼ることなく内発的地域振興を主張する元市会議員である宮城康博(筆者)の挑戦を退け大差で勝利した。
◆2006年 条件付き賛成派の勝利・反対派の分裂敗北
2005年から2006年にかけて、在日米軍再編協議で1999年に閣議決定された沖縄側からの条件をいれた普天間代替施設の基本方針は破棄され、軍民共用空港にするなどの方針は消えた。その上で、地元は騒音などの懸念から滑走路等が陸域に近づくことを拒否していたが日米両政府は既存のキャンプシュワブに乗り上げる形で埋め立てを伴う基本計画を合意した。
現職の岸本建男市長が病気療養のために勇退し後継に市議会議長の島袋吉和が、米軍再編で合意された現行案のままでは生活環境における騒音が懸念されると反対を主張し、反対派は保守系の我喜屋宗広と革新系の大城敬人(よしたみ)の両市議が立候補し分裂。島袋吉和が当選した。
◆2010年 反対派の勝利・条件付き賛成派の敗北
島袋吉和市長は当選後数ヶ月で、日本政府の滑走路をV字型で二つに変更し、離陸用着陸用と分けることで集落上空を飛行しないというプランで合意する。V字型滑走路での飛行経路に関しては風向き等の条件で変わる、かならずしも離着陸の方向性が限定されることはないと米軍も表明し、島袋市長は広範な市民から公約違反の批判を受ける。合意された基地計画は軍民共用でもなく、結果的にSACO合意時の普天間代替施設のプランよりも規模機能が拡大した新基地としかいえないものになった。国政においては自民党から民主党への政権交代があり、鳩山首相の普天間代替施設は「最低でも県外」という主張もあり、名護市においては、反対派が保革を超えて長年名護市職員を務め教育長で退任した稲嶺進を擁立し、稲嶺は辺野古の陸にも海にも基地は造らせないを公約し、条件付き賛成で滑走路を沖にずらすべきだと主張していた現職の島袋吉和に勝利した。
◆2014年 反対派の勝利・基地建設賛成派の敗北
国政における民主党連立政権は、普天間代替の移設先をみつけることができず辺野古へと回帰する。それを受け社民党が連立政権から離脱する。2012年の解散総選挙で自民党公明党の連立へと再び政権交代となる。辺野古新基地建設計画は、民主党政権下でも進捗し続け沖縄県では自民党も含め、反対という状況になっていたが、国政で自民党政権が復活してから様相は変わる。まず沖縄選出の国会議員が東京の自民党本部で翻意させられ、基地建設を認める。続いて自民党県連の県議会議員たち。そうして最後は2013年末に仲井真県知事が辺野古新基地建設のための埋立承認を行う。そのようななかで名護市長選挙は行われ、反対の現職と、名護市選出の県議であった末松文信との一騎打ちになった。末松は受入条件のない賛成で基地建設を推進する立場を主張したが敗れる。
小括
市民投票で台頭した名護市における「条件付き賛成」派は、98・02・06年と勝利を続けてきたが、2005/6年の在日米軍再編で沖縄側からの条件が日米両政府により反故にされ、普天間代替施設が辺野古新基地としか呼べないモノになって以降状況が大きく変わる。2010・14年と基地建設反対が勝利し、なおかつ賛成派は14年には条件付きではなくシンプルな賛成であった。地域社会においては苦い劇薬になる米軍基地建設を受け入れるための糖衣である「条件」を付して賛成派は容認し続けてきたが、14年にはその「条件」をもかなぐり捨てて敗れた。
日本国の政権党である自民党・公明党が、そのような変遷を押さえつつ今般の名護市長選挙でどのように戦ったのかを次にみてみる。
何が起こったのか
投票日当日の投票者より期日前投票の投票者が多いというのは異常な状況である。それをなし得たのは、自民党の民間企業、公共工事等に関連する業界団体への徹底的な働きかけと公明党の支持母体である創価学会の構成員の大挙した名護入りと徹底した名護市学会員や支持者への働きかけである。告示前後から投票日まで名護市内で200台ともいわれるレンタカーが動き続け、個人宅と投票所を往復したり様々な行為が行われたようである。
当選した渡具知武豊は市議会議員時代は間違いなく辺野古新基地建設推進派で、全国の自治体議会に賛成の決議をあげるよう要請する文書にも署名している。それが、市長選出馬にあたり公明党との政策協定のため、辺野古新基地建設の是非については国と県が裁判状態であるところからその推移を見守るとし口をつぐみ、過重な沖縄の基地負担の元凶になってる「在沖米海兵隊は県外・国外移転」とした。これにより公明党の推薦もとりつけた(ちなみに2014年の市長選挙では、公明党は末松候補を推薦せず自主投票としていた)。名護市長選挙において最大の争点である辺野古新基地建設の是非についてはいっさい明確にしていないのである。これで、女性たちをはじめ内部に辺野古新基地建設に根強い反対の意思を持つ公明党支持者の票を得る道筋をつくった。そうして、先ほど紹介した全国から名護入りしレンタカーで動き続ける人々の活動があるのである。
菅官房長官をはじめ自民党の要職にある人物も名護入りし、主だった団体や企業に働きかける。のべ数百人という国会議員が公にならない形で名護入りし様々な企業団体に働きかけ続けたという。
現職の稲嶺進陣営は、辺野古新基地建設の問題を最大の争点と位置づけ主張し続け、マスメディアもそのように当然視して報道し続けたが、渡具知武豊陣営は、徹底して辺野古の争点外しを行い、街頭演説等の応援弁士には「辺野古のへの字も言ってはいけない」と文書で注意換気する徹底さであった。実際、自民党の人気のある国会議員たちが名護入りして応援演説をしたが、だれひとりとして辺野古新基地建設に触れるものはなかった。
先ほど、名護市長選挙のこれまでの変遷を私たちは見たが、条件付き賛成なら反対に勝てるが、条件のない賛成では勝てない。そのことを前回2014年の市長選挙の結果から学んだ自公陣営は賛成そのものを徹底して消したのである。そんなことが罷り通っていいのかとおもうが、菅官房長官は8日の記者会見で「選挙は結果がすべてだ。(落選した)相手候補は必死に埋立阻止を訴えたのではないか」と市長選で辺野古移設が容認されたと認識を示している(時事通信2.8)。
選挙戦術として辺野古新基地建設について一切語らせず、経済振興や閉塞感ばかりを語らせ、閉塞感を演出し政府との協調で財源を架構しバラ色の地域発展を幻想させる。そして当選したら、反対が敗れたのだから新基地建設推進で、当選者が主張していた財源についてはできる限りのことをしてやる(かもしれない)というのである。
しかしなんでこんな選挙戦術がまかりとおり、功を奏して当選できるのか。それが名護市なのか。20年も経て、こんな地平に出てしまうことに虚しさを感じるが、しかし別の角度からみれば政府と協調し基地建設推進を主張する陣営も、20年を経て、基地建設そのものに真正面から向き合っては反対の底深い民意の前では勝てないと逃げたということでもある。有権者は市長選挙において一つのイシューで投票するわけではないので、様々な考え方があるのは理解するが、こんな逃げ方が通用するようでは民主主義は成り立たない。名護市民の6割以上が辺野古新基地に反対しているのは選挙時の出口調査や様々な世論調査結果からも明らかになっている。
今回の名護市長選挙は安倍政権のなりふり構わない総力をあげた介入により、民意が歪められたといっても過言ではないが、これまでの経緯等を踏まえつつ、反対派の陣営に選挙に対する取り組みに弱さがあったことも否めないだろう。様々な問題を残した。
匿名の人々
市長選挙に突入する前年、つまり昨年12月は、市民投票から20年という節目の年であった。沖縄タイムスに私は取材されて、市民投票を振り返りながら、今日の状況について語った。紙面に組み上げられた記事をみてびっくりした。反対派として紹介されている私は顔写真と名前が出ており、対になってる条件付き賛成派の方は匿名で顔写真も出ていない(2017年12月21日沖縄タイムス)。この非対称さが、今回の市長選挙の背景にある。その翌週には、市民投票時に名護市長であった比嘉鉄也のインタビュー記事が掲載された(2017年12月25日沖縄タイムス)。比嘉鉄也は「市民投票に民意はない」と言ってのける。曰く市民投票には公職選挙法等の規制がないので「おおっぴらに飲食接待し」云々である。そのような行為はぜんぶ、自らの条件付き賛成派陣営が行ったことなのに、それをもってして「民意がない」というのはひどすぎる暴論である。だが、この二つの新聞記事をみて、私は知る。条件付き賛成派陣営は、市民投票そのものの価値を潰しにかかっている。
筆者は名護を離れ久しいものだから、あまりピンときてはいなかったのだが、このときすでにもう比嘉鉄也ら名護市の関係者は市長選挙の態勢に入っていた。あの二つの記事は、市民投票およびその後の市長選と同じような戦いを行うぞという表明もしくは露呈であった。市民投票後の1998年の名護市長選挙を思い出す。あのときも反対派は市民投票の結果で過半数が反対になったのだから、それを裏切り受け入れ表明し辞職した市長の後継・岸本建男に負けるはずがないと思ったが、名護市有権者の経済振興への期待は大きく、岸本建男は名護市としての判断は市民投票の結果と前市長の受け入れ表明で決着がついているとして、あとは沖縄県知事の判断だと名護市としては「凍結」を宣言した。それで市長選挙に勝利した。20年後の2018年の名護市長選挙では、基地建設工事が進む状況下で、現職は断固阻止を前面に出し選挙戦を戦うが、条件付き賛成派は「国と県の裁判闘争の推移を見守る」と、市長候補としての判断を明確にせず、経済振興等だけを主張した。1998年と相似なのは、名護市としての意思決定を明確にせず、県や国という統治機構における他の団体意思に委ねているところである。そして今回の選挙戦で特徴的だったのは、当選した自民党公明党推薦の候補者は、徹底的に選挙戦における両候補者の討論等を避けたことである。現職の行ってきた行政に対する激烈な批判は、新人陣営が行うのは当然といえば当然の行為であるが、今回のそれにはあからさまなデマも混ざっていた。まるでインターネット上で匿名で行われるヘイトやデマと見紛うばかりであった。現職陣営は具体的なデータに基づいて、そのデマに反論していくが、討論にも一切出てこない新人陣営は言いっぱなしで逃げきった格好である。自公陣営からみれば、候補者は渡具知でも誰でもいい匿名の誰かであっても構わない。勝利するための選挙マシーンが駆動し勝利する方程式はある。
インターネット上での匿名のデマは無責任に拡散し続けるが、市長選で当選した候補者は匿名の誰かのごとく無責任ではいられない。渡具知武豊名護市長は、現実の行政を執行する中で、自らの公約との矛盾の中で整合性を求められ苦労することになるのは火をみるより明らかだ。
民主主義の破壊
2018年の名護市長選挙は、政府が沖縄の民意を無視して辺野古新基地建設を強行し続ける中で行われた。政府のそのような強行姿勢と、辺野古新基地建設阻止を表明し圧倒的票差で誕生した翁長県知事と同じく阻止を公約している稲嶺名護市長がいるのに、強行が進んでいる現実は、名護市民にある種の「あきらめ」を醸成した。そういう意味では翁長県知事や名護市長を誕生させた陣営の手詰まり感が選挙結果に影響していることは否めない。だが名護市民の反対の意思は明確である。であるから、政府と名護市のかつての条件付き賛成派陣営は、候補者に賛成反対を明確に言わせず政府のもてる金と権力だけを誇示し、それとの太いパイプを主張させ続けた。そして選挙戦を通じて「閉塞感」を言い続け、まるで名護市において基地建設問題で生じた市民間の「分断」も市内はもちろんのこと県内および全国から結集して辺野古現地で懸命に抗い続ける市民によるものであるかのごとく演出した。この20年間の名護市における紆余曲折を知らない若年層を中心に、長く続く出口の見えない闘争状況に嫌気がさしている50代以下の有権者が、政府および条件付き賛成派陣営のその戦略に呼応した。愚直なまでに自治と新基地建設阻止を訴え続けた現職陣営はその戦略に対して効果的な戦略を打ち立てることもできず敗北を喫した。
政府の金と権力のおそろしさと狡猾さをまざまざとみせつけられる結果となり、辺野古新基地建設に反対する民衆の立場からは手痛い結果となったが、しかし当選した渡具知武豊名護市長は、ここまでにみてきたように、辺野古新基地建設についての賛否を明確にしていない。政府は反対する現職の落選を持って市民の容認を得られたようにレトリックを駆使するだろうが、選挙戦で問われていないイシューに対して名護市有権者は当選者に白紙委任しているわけではないのは自明である。今後とも阻止闘争は続けられるし、新名護市長が政府に対して辺野古新基地への合意を示せば市政は混乱を来すのは必至であり、新市長は難しい舵取りを迫られている。選挙では敗けてしまったが、反対する名護市民の「あきらめない」闘志は灰燼に期すどころか、落選した稲嶺進が退任翌日には辺野古ゲート前で民衆と今後の戦いについて真摯に語り、起こりうる問題点について確認し、闘争継続の意思を確認し合っている。稲嶺進が任期8年間で名護市政に残した再編交付金という基地建設への協力が条件になる政府資金に頼らない行財政運営は自治の誇りとして歴史に残るだろう。そのことを今回の落選で道半ばで終わらせてしまったのは、名護市民にとって日本国の地方公共団体の自治行政においてほんとうに残念なことである。このような市政が、政府の介入による選挙戦術で潰えてしまうのは自治の崩壊であり民主主義の破壊でさえある。だが、政府介入が今日ほどではなかったとはいえ、1997年の市民投票で名護市民は反対過半数を示したが98年の市長選挙では条件付き賛成派を市長としている。名護市は、民意は基地建設反対、だが経済振興を求める、その間で揺れ動き続けている。そのことを十分承知した上で、反対する陣営が新基地建設阻止のために有権者への働きかけをどのように行っていくのかという課題が残った。
11月には県知事選挙がある。辺野古新基地建設に反対する沖縄は、どのように政府に向き合っていくか、正念場がずっと続いている。
総括
2月4日の名護市長選挙の結果を受けて、私はこの小さな報告を7日から8日にかけて断続的に書き続けた。市長選後の関係者の様々な動きは現在進行形だが、政府はこの結果をもって辺野古新基地建設に対する名護市民の容認を得たように喧伝している。実際には政権のテコ入れで当選した新市長は、辺野古新基地建設について明確な意思を表明も公約もしていないことは明らかであり、新聞やテレビなどのメディアはそのことを報じている。今後とも新基地建設阻止の戦いは続く。
安倍政権は、憲法をも骨抜きにする安保法や共謀罪の強行採決、そして政権および行政権力を私物化して恥じない森友加計問題などのスキャンダルの数々、ほんとうに危険極まりない政権である。その政権が、名護市という小さな自治体の市長選挙に総力をあげて介入した結果が今回の名護市長選挙の結果である。
沖縄の私たちは、自分たちの内にある弱さをも自覚し、連帯しどのように辺野古新基地建設を強行する政府に抗い阻止するか、大きな問題に直面している。あきらめる余裕などどこにもない。1945年の沖縄戦以来続く、基地の島からの脱却を目指し続ける歩みを止めることは、沖縄戦で亡くなった幾多の民をおもえば許される行為ではない。
了
(本稿は、オーストラリア在住の歴史家ガバン・マコーマック氏の依頼を受け、The Asia-Pacific Journal: Japan Focusに英訳され発表されることを前提に書いた小稿である)