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宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

[普天間問題と辺野古住民]

6月25日の毎日新聞東京版に、熊本博之君のインタビュー記事が掲載されていた。熊本君とは、彼が社会学徒として辺野古のフィールドワークに入り始めた頃からの付き合いであり、インタビューしている上野央絵記者は彼女が名護に取材に入り始めた頃、私は名護市議をしていて彼女の誠実な仕事ぶりを知っている。二人がこうやって、紙面で辺野古の「状況」を語るのは当然の流れと言えば流れなのだが、名護を離れて久しい私には、なんだか古い友人たちに邂逅したような気分でもある。

民主主義とは

熊本君がここで語ることは、この十数年の彼の調査の実績と辺野古の人々との人間的な付き合いのなかから掴み出した事実であり、私が捕捉するようなことは何もない。

上野さんが熊本君のインタビューを終えて記した一言。「国があきらめていないだけなのだ」は真実を突いている。しかし真実を突いているからといって、出口は見出せるかというと簡単には見出せない。市民もまた「市民があきらめていないだけなのだ」といえるほどにはあきらめずに今日、この地点まで来ている。このままでは、ふたつの非対称な力関係を有する「あきらめない」が衝突して大惨事を招くだろう。民主主義とはなんなんだろう。問題はとても根深い。宮沢賢治の「狼森…」*1では、百姓たちは森に畑や家を作っていいか聞くが、政府は地域に一言も聞かないで決定を押し付け続ける。政府は賢治の物語から他者に対する姿勢を、世界に対する配慮を学ぶべきである。

賛否の表明を求め続ける客人

インタビューで熊本君は「大事な問題は住民の総意で決めるべきだ」と言っているが、私はもう辺野古区民に新基地建設の問題を問うてはいけないとさえ思っている。名護市という地方公共団体が、名護市民投票の結果を反古にし「普天間代替」を条件付で容認した、その条件を反古にし一方的に計画変更したのは日米両政府であり、このままこの問題を地域における意思決定の問題として認識することは、地域には日米両政府への隷従という選択しかなく、日米両政府に許容していただける範囲内での条件交渉があるだけである。

返野古区の「住民自治」の問題として、総意を決めることは重要だろう。しかし、仮定の話だが、辺野古区民が容認し条件交渉の道を模索したとき、そこで起るのは、名護市という基礎自治体を通り越して政府と返野古区が交渉し何らかの契約を締結するという事態であり、それは日本国における「統治」の在り方としてどのように正当性を得るのか。新基地から起る被害影響は辺野古区民にのみ降り掛かる性質のことではなく、そのことに対して辺野古区はいかなる責任も負える主体ではないことを我々はどのように考えればいいのか。

マスコミや研究の「取材者」は、辺野古という地域を訪れ人々に賛否の表明を求める。ずっとこの17年間そうだった。そのことの政治的意味や機能、社会的意味や機能は問われることなく、取材者は地域住民に賛否の表明を求める客人として訪れ、賛否の表明を求め続ける。いいかげんにしたほうがいいんじゃないかと、うんざりする私がいる。

古い話で恐縮だが、1997年の名護市民投票で条件付賛成という項目が入れられるという策動を受けてもなお、当時の名護市有権者は「反対」という意思を過半数超として示している。それ以外に、市民が制度に則り直接意思表示した事実はない。そのことを蔑ろにし、ずたずたにしてきた17年であり今日である。相も変わらず、地域住民に賛否の表明が求め続けられている事態はおかしいと思わないのだろうか。名護市長が明確に反対している現在の状況では尚更のこと、住民に問うより、民主主義社会の木鐸としては政府に「あきらめろ」と迫るのがスジだろう。それとも、名護市長を超えて責任を負える主体として辺野古区民を想定しているのか。私には違うとしか思えない。それは地域住民を蔑ろにするということではなく、蔑ろにされている現実に「違う」と思うということである。様々な意見があるのは当然であり、それ故に我々の社会は在り方として議会も構成し、地方公共団体をつくり首長を公正な選挙で選び出し仕事させているのではないか。そして憲法に位置づけられた地方自治の制度的在り方として地方公共団体と国の行政機関とを原理的には対等な立場で位置づけているのではないか。

「容認は賛成ではない」

しかし、かといってこのような新聞記事が無駄だということは断じてない。ニュースの表層を流れる問題に関して、間欠泉のように地元の様子を伝えるのは意義のあることだ。官製情報だけが垂れ流される状況の中で、その意義は大きい。

おそらく毎日新聞社のスタッフが立てた見出しだろうが、「容認は賛成ではない」というのはこの問題が沖縄に、名護市に降り掛かって以来、重要なテーマであり続けている。熊本君には社会学徒として、このテーマを突き詰めてもらいたい。鳥山淳さんが『沖縄/基地社会の起源と相克』のあとがきに記す「容認として括られてしまうような『選択』の中にも告発の火種はくすぶっているに違いない」*2とした問題意識を、辺野古新基地建設問題の現実・現在の地域の人々の行為の中から抉り出していく仕事を期待したい。

私見では、「容認は賛成ではない」は確かにその通りなのだが、私たちは「条件付賛成」という容認の条件がことごとく消尽していく中で「賛成」だけが残っていったのを既にみている。故人である岸本建男市長は、自ら付した条件が消尽されていく中で反対はせず、浅瀬案に賛成した*3。条件付賛成派の市当局の事務方トップを勤め続けた末松文信さんは、去った市長選挙では候補者として辺野古で街頭演説を行い、新基地建設受け入れに関して「17年間、心血を注いできた。誰のためでもない。我が国の安全と防衛のためにやってきた」と語り、「一般の名護市民にはまだまだ伝わっていない」が「辺野古地区の人々は重々知っている」と辺野古の支持者(行政委員や有力者たち)の前でいう*4。それは彼らのプライド(誇り)の表明であり、選挙で敗れたとはいえ、私はこの表明を一笑に付すことも、ないかのように扱うこともできない。

国家こそが最大の暴力団

事態は地域を人々を深く分断し、現在進行形である。国家のあきらめの悪さは尋常ではない。もののけ姫に出てくるタタリ神の如く、ただただ闇雲に突進し続け埋立着工直前にまで来ている。沖縄からみていると、ほんとうに国家こそが最大の暴力団で、自らが決めた秩序を維持するためだったら暴力装置をいつでも駆使するし、他者の意見は聞かない存在しないかの如く扱う。

それでも、沖縄の民衆が粘り強く、非暴力で辺野古新基地建設を拒否し続けるのは、なぜなのか。「容認は賛成ではない」の根底にあるものを、注意深くみつめ、できるだけ速やかに我がモノコトとしなければ、世界は瓦解し始めている。

最後に一言。熊本君の辺野古地域の方々への眼差しは深く優しい。彼が辺野古の方々に信頼を得ていることが私にはとてもうれしい。


 

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画像では文字が見づらいだろうからどころではないね。evernoteにおいたPDFファイルもシェアするので記事はそちらで読んで下さい。