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宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「主権在米」を変える「発想の転換」を

いやぁ、たいへんな風邪だった。少しまだ引きずっているが、どうにか峠は越した感じ。子どもが中耳炎やらいろいろ併発して、まだ本調子じゃないのが心配。しばらく緊張が続く。
書きたいことは山ほどあるんですが、仕事が立て込んでいるので、しばらくはゆっくり箇条書きのような記事からリハビリしていきます。(と書きながら、また無駄に長い記事にしてしまった。反省)

まずは、山口衆院二区補選。

酷い「姥捨て山」制度に向き合いながら、自公候補を勝利させたらたいへんなことになっていた。岩国市も含まれる山口二区の有権者のグッドジョブに感謝。

「姥捨て山」制度を導入した小泉政権の罪過に多くの人びとは気付き怒っているだろうか。楽観視できる材料はたやすく思い浮かばない。人間が政治をは じめて以来続いているだろうポピュリズムが、簡単に死に絶えるわけもないし、日米同盟を国のあり方の根幹に据え続けることが問題にされない現状は、新自由 主義的政策が終焉する気配を微塵も感じさせない。

おそらく、市井をのたうちまわりながら生きるわたしたちにとって、いま必要なのは夢をみることではない。現実を凝視し、問題を自らの力で抉り出すこ とだ。そのために必要な力はさまざまある。知性も理性も感情もすべて必要だ、なかでもいちばん重要なのは「想像力」だとわたしは思う。

ブログ更新ができない間にも、状況は動き、ニュースは飛び交っていた。

■主権在米

北谷町で起きた、米海兵隊憲兵隊の犯人連れ帰りも、地位協定に反する問題があるにも関わらず、幕引きの気配濃厚。外務省は確信犯だろうが、マスコミもジャーナリストも感度が鈍いのか問題視されていない。

(現実が露呈した場所が)「沖縄」だからなのか。(問題を起こしている組織が)「米軍」だからなのか。(侵害されているのが)「警察権」だからなのか。

わたしにはあまり理解できない。「警察権」が「米軍」により侵害されているということはそんなに問題じゃないのか。試しに警察権をYahoo!辞書(大辞泉)でひくと下記である。

警察機関が公共の秩序維持のため、国民に命令・強制してその自由を制限する公権力。

わたしは国家が占有し駆動させる警察権そのものに警戒心と猜疑心を持っているが、その公権力が、他国の軍隊により侵害されているのは、国家主権に関わる重大な問題ではないのか。国家主義者も保守主義者も、リベラルも護憲派もなんでかかる事態に無反応なのか不思議である。

これは、「沖縄」であり、「米軍」だからなのだろう。

このような現実に対して、どのように穴を穿つか。わたしは途方もないドン・キホーテなのだろうか。さしずめわたしの子どもたちは、わたしが脳内で措定した守るべきものでありサンチョ・パンサである。

ドン・キホーテは挫けている余裕がないので、「主権在米」としてはじめた地位協定等に関わる諸問題については、引き続きしつこく追い続けていく。

琉球新報という沖縄の新聞社のウェブページが、なかなかいいデザインになってきている。日米地位協定に関わる記事がひとまとめにされているので、このような問題について考える際にはスコブル便利である。

日米地位協定-琉球新報
http://ryukyushimpo.jp/news/storytopic-88.html

■発想の転換

わたしが2月に酔っ払って書き飛ばした「鬼畜への手紙」というエントリー。例の事件は、被疑者を米軍が高等軍事裁判にかけることになった。被害者が告訴を取り下げたので、事件そのものをなかったことにし、酷い奴は被害者の狂言で逆告訴されると汚物のような言葉を垂れ流していた。あの連中には事実など関係ないし、なにがおきてもその後の経過などに興味ないだろう。ましてや、自らの発言を省みるはずもない。

日本側の第一次裁判権は放棄され、米国側が第二次裁判権を行使する。

そのような状況を作り出すために彼ら彼女らは奮闘し、それが功を奏した。日本の「保守」や「革新」という政治意識に関するカテゴライズは、ひどくわけのわからないものである。彼ら彼女らは「保守」派のように括られるが、なにを「保守」しているのか。おそらく、このような問題も突き詰めて考えていけば、ひじょうにおもしろい有意義な思考の活動領域だろう。彼ら彼女らが「保守」しようとしているのは、「沖縄」を「米軍」に捧げる現在であり、そこに穴を穿つにはそのような「保守」への思考が必要である。

沖縄もまた、県政も、基地建設地される名護市などの市政も、「保守」にがんじがらめにされている。植民地政策などと日本国および日本国民に文句言っているだけではすまない現状がある。

昨日、わたしは行かなかったが、あるひとつのシンポジウムが県都那覇市であった。

新基地建設は不要/県内大学教授らがシンポ
沖縄タイムス:2008年4月28日(月)朝刊2面)魚拓

詳しくは上記の記事を読んでいただきたい。わたしは紙面も読んだが、メンバー構成からどのようなお話しをなさるんだろうなと、事前にわたしが予想していた通りであった。

みんなが薄々感じている。新基地は普天間代替なんかではない。振興策では地域経済の持続的発展はない。自然破壊を進めていくのは自殺行為である。…しかし、どうしてそれとは真逆の政治的選択をし続けるのか。

名護市で選挙等に関わった経験でいうと、有権者は新聞やメディアから情報を得ていない。得ていたとしても、それを投票行動の重要な参照にはしない。では、なにか。どうやったらこの状況を変えることができるのか。名護市の市長選挙では、革新政党ですらが、選挙結果の重要さに鑑み共闘を重んじ保守であった人物を推薦し奮闘した。しかし、著名な小説家で沖縄を背負い辛口の発言を続ける人物や「市民運動」を名乗る活動家や一部の旧態とした保革の枠組みにこだわる人びとが、共産党を除名された特異な市会議員を担いで奮闘した。その結果、名護市保守系支持者ですら恥ずかしい人物と評する、基地を拡大して受け容れる現市長が誕生する。わたしは誰もが政治的主張をし被選挙権を行使できる現在を歓迎する。しかし、無責任な言説を垂れ流し混乱を助長する行為は歓迎できない。結果責任を負うべき人びとは大勢いる。わたしもまたそのひとりだろう。

状況を変えるために、わたしたちには「発想の転換」が必要とされている。これまでも必要とされていたし、いまでもされている。

シンポジウムのチラシをみてわたしは書いた 

主催者である学者・研究者たちの「発想の転換」は必要ないのだろうかと素朴に疑問に思う。
発想の転換2008.0414nagonaguの日記)

発想の転換は、他者に求めるだけではなく、現状をおかしいと思い変革したいと願うわたしたちにこそ求められている。わたしにはそう思えてしょうがない。

そうはいうが、これはとてもむずかしい。ましてや自分がかけていることを意識していない色眼鏡を、はずすことなど簡単にはできない。

わたしもまた、まちがいなくそうである。しかし、色眼鏡などかけていないフリはしないのと、できあいの色眼鏡で自分を縛る愚かなことだけはしたくないと思っている。

発想の転換は、現実と格闘するなかでしか生まれてこない。そして、それには想像力が必須である。わたしたちはコミュニケーションを欠いてはいないのであって、逆に、コミュニケーションを持ちすぎている。わたしたちには、創造が欠けている。現在に対する抵抗が欠けているのである。だれだっけ、哲学者がそう語っていた。

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あぁ、また無意味に長くなってしまった。最後まで読んでくれてありがとうございます。

できるだけ冗長な記事にならないように努力して、読者に有意義な情報を提供できるよう努めていきますので、本日は病み上がりのリハビリということでご笑納ください。

それでは、宜野湾大謝名は雨が降ってきた。洗濯物を干そうと思っていたが、やめて仕事に戻ります。

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