宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

ケータイとコミュニケーション

Navy_ink ケータイは、個人的な支配欲が剥き出しになった機器である。
そんな風にどこかで書かれていた。

私の比較的若い友人たちは、ケータイを使って友人同士で(メールや声で)頻繁にやりとりしている。あれはあれで、便利な道具として利用しているのだろうと思うが、私にはどうもしっくりこない。少し年をとったのと、議員でなくなったことをいいことに、あまり他者と連絡することがなくなったこともあるだろう。

最近は、一人きりでいる日が多く、気がついたら一日誰ともしゃべってないなどもままある。ケータイが鳴らない日があっても、さほど気にならなくなっている。
固定電話では前からそうだったが、通常は留守モードにしっぱなしで、留守電機能を応答マシーンとして利用している。

電話はこちらの都合など、関係なくかかってくるのだから、それをケータイしているということは大変なことである。

先日、(事前にその時間帯にケータイでのやりとりを予約していたとはいえ)ケータイで話していた相手が、私の物言いが気に入らないと、一方的に大きな声で喚きたててきた。

私が悪いのかと思いしばらくは我慢もしたが、あまりにもエスカレートして、何を喚いているのかも聴き取れないので、失礼ながら耐え切れずにケータイを切った。しばらく、「悪いことをしたな」と気にしていたが、「いやいやこの場合はいたしかたない」と気に病むのをやめた。

固定電話でも同じだろうが、相手が切断(拒否)することを前提とせず大声で喚くのは、一方的に切断するよりも明らかに暴力的である。

大声は、そのような暴力を行使しようと思って出るわけでなくとも、ケータイでのやりとりは、すでに相手の生活領域に生身の身体を持った実体ではなく 声だけで相互侵犯しているのである。生身の身体がそこにあれば、相手の表情や身振りしぐさで、相手の心身の状態を知り、コミュニケーション的配慮が行なわ れる場合でも、ケータイではそうはいかない。それでも一方的に切断するのはコミュニケーションを断つ暴力だと断じられれば、それでは離れることを禁じられ て一方的に殴られるか殴り返すかのバトルでしかない。切断する(避難・離脱する)自由もない、デスマッチ状態をなんと表現したらいいのだろう。奴隷、地 獄、無限の暴力、…いずれにしても、私にはそれをコミュニケーションと呼ぶことはできない。

コミュニケーションが断たれたのではなく、そもそも“そこ”にコミュニケーションはなかったのである。

そうはいうが、若い友人たちは、ケータイを使って、ひとことふたことのメールを交わしながら、お互いの近況や雰囲気を伝え合い探りあいながら、遊びの約束や様々なことを円滑に行なっている。

私だって、日頃は件の声の主と、短いケータイメールのやりとりや声で、近況を円滑にやりとりしている。

ケータイとコミュニケーション。
なかなか興味深い、考察の対象である。

あっ、以前読んだ「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」という本の感想を書こうと思っていたのに、友人との待ち合わせの時間が過ぎた。またにするわ。