みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

「本土の沖縄化」について

「本土の沖縄化」という言葉(ツイッターでみかけたのだが、いちいち出典は探さない)が気になるので、少し考えたことを記しておく。

この言葉には歴史がある。1972年の米国から日本国への施政権返還前後にも「本土の沖縄化」という言葉は流通した。大江健三郎沖縄ノート』(1970)にも、「本土の沖縄化」という言葉への言及がある。

日米安保条約の再定義や諸々が行なわれる時にも折にふれて「本土の沖縄化」という言葉が、人々の口を突いて出てきた。沖縄の米軍基地/訓練の本土移転に際しても「本土の沖縄化」という言葉は使われる。

大阪の八尾市にある八尾空港に米海兵隊オスプレイ訓練を受入れるなどという思いつきを維新の会という政党の幹部が喋ったものだから、そのことに対して、またぞろ「本土の沖縄化」という言葉が私如きの目にも触れる。

まず、この維新の会の発言は、単純な思いつきレベルを超えない陳腐なものであり、オスプレイがどういう輸送機であるのかも知らず、なおかつ必要とされる訓練がどういうものであるのかもお構いなく、沖縄の「負担軽減」というお題目を出したいがために喋ったという程度のものであり話にならない。維新の会の政策としてもオーソライズされたものではなく無責任極まりないお喋りでしかない。打診も何もなく突然言及された八尾市が迷惑この上ないだろうことは想像に難くない。

この国の安全保障に対する政策的思考はこの程度であり、米軍様の意に沿うように受け入れる恭順の意を示すことと、そのためなら地方自治や政策意思決定における諸問題の議論や精査の積み上げなどどうでもいいのである。

このような陳腐な発言を受けて、政府が真顔で検討に値するありがたい等と呼応している状況こそ、底抜けで恐ろしいと思うが、そんなことにも慣れてしまい弛緩している日本国の状況がある。

国やマスメディアを含むマジョリティの動向に、対抗し警鐘を鳴らす(もしくは対案を示す)存在であることを期待されている革新勢力の側からも、かかる事態に対して「本土の沖縄化」というステレオタイプと言ってもいい批判しか出てこないことが、このような底抜け状況を補完してないか私は気になる。

2013年7月の参院選を前に、沖縄の自民党が党本部の政策と相反する「県外移設」を主張しているのは、半世紀以上も続く沖縄の沖縄化の固定化を許さず「本土の沖縄化」をも辞さない沖縄からの決意表明といえるだろう。自民党沖縄県連がどれほど本気なのかは、選挙時の公約を裏切り県内移設に転じた衆院4区の西銘や参院の島尻を糾弾も県連として除名もせず馴れ合っているのをみるとよくわかる。自民党沖縄県連に「県外移設」を貫く根性も理論的政策的裏付けもない。ただただ現今の沖縄の状況では県内移設に賛成して選挙を戦えないというリアリズムだけがある。

この自民党沖縄県連のリアリズムを舐めて、県外移設に際して「本土の沖縄化」というクリシェで向き合っていては革新勢力の凋落は止まらないだろう。ましてや八尾訓練移転という陳腐な維新の会のおしゃべりは、年間1週間から10日ほどの訓練受入れ提案であり、普天間基地の県外移設受入れなどではない。沖縄の「負担軽減」策としても筋違いの卑小。これが「本土の沖縄化」などあまりにも分不相応な名付けではないか。

沖縄ノート』にある「本土の沖縄化」への言及を引用しておく。


…そして、ごく一般的な広い層の「本土の沖縄化」という言葉の受けとめ方が、これまでそうであったように沖縄を見棄てておくほうが、「本土の沖縄化」よりいいではないか、というようなところまでエスカレートしないまでも、すくなくとも本土の日本人のエゴイズムに一条の光を投げかけて、沖縄を遠ざけるかたちに機能するのではないか、というのが僕のもっとも基本的な疑いなのだ。

大江健三郎沖縄ノート』(岩波新書1970)P116

私は八尾市がオスプレイ訓練等受入れるべきではないと思っている。米軍の殺戮に加担する必要はないし、それを国家が国家安全保障としているからといって自らの安全保障と認める必要はない。「民衆の安全保障」という概念や運動が、国家に殺されないためにも私たちには必要だと思っている。しかし、今回の八尾訓練移転の維新の会のデタラメなおしゃべりに過剰反応(と私は思うが)して「本土の沖縄化」という言葉を単なるクリシェに反対してしまうことは、現状を大きく歪め見誤らせる。「本土の沖縄化」という言葉は1970年に大江が疑念を持ったように「沖縄を遠ざけるかたちに機能する」とはいえないだろうか。それともあれから40年を経て状況は大きく変わり、「本土の沖縄化」という言葉は、であるから沖縄を沖縄たらしめている現状を変革し安保廃棄に国民運動で邁進する国民的コンセンサスでもできているのか。私はそうは思えない。

沖縄の自民党の「県外移設」は「本土の沖縄化」をも辞さない沖縄からの決意表明だけではなく、このような主張が自民党から出る現在の状況は「沖縄の本土化」の最終段階に入っているのかもしれない。政府自民党(即ち国家官僚)は、沖縄を怖れてはいない。オスプレイ反対/普天間閉鎖撤去/県内移設断念を求めた「建白書」を政府に手渡した沖縄のエスタブリッシュたる議員たちは「私たちにはもうこれ以上、手がない」と東京行動の集会(2013.1.27)で吐露している。

(補遺)

沖縄の米軍基地は日米安全保障条約日米地位協定に基づく。実質沖縄狙い撃ちの駐留軍用地特措法も政府は全国マターだから憲法95条案件ではないと言ってのける。本土が沖縄化するのは法制度的には無問題。

「本土の沖縄化」など、沖縄にいる私には無問題。上記のような枠組みで沖縄が「本土の(ための)沖縄化」であることが大問題。そのことを解決する術を持たない本土は「本土の沖縄化」を怖れるかもしれないが、沖縄としては「本土の(ための)沖縄化」を解決するために、「独立」という事柄が語られ始めている。「本土の沖縄化」という言葉が沖縄を遠ざける機能を意識(※)し、共に問題を考え解決する回路はまだ閉ざされてはいないと私は信じたい。だが、あまりにも壁は厚く状況は酷い。

※沖縄を遠ざけさせる機能は、「本土」にだけ働くのではない、沖縄においてもまた。