みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

曳かれ者の小唄

総理大臣をやめたひとが、役所の意思が固くて辺野古にアメリカの基地をつくることになったといったらしい。おそろしいことだ。(毎日新聞 2010年6月12日

デモクラシーという言葉というか概念というか考え方があり、それにもとづく制度がある。あることになっている。日本国民の投票で選ばれた国会議員で、国会の多数派が選び出した総理大臣が役所を動かせないということは、役所を動かしているのは誰なんだ。くだらん陰謀論が跋扈するのは、くだらん現実があるからでしかない。このあまりにものくだらなさは、おそろしいほどである。この国の主権者はidiotなのだろうか。

外務大臣をしているひとが、沖縄のひとびとが『やむを得ない』とおもう状況をつくるといっている。(→共同通信2010/06/09

こんなにもあからさまに、敵対され恫喝される沖縄のひとびとは、この国の主権者ではないんだろうか。沖縄は、はからずもこの国の在り方の根源をみつめざるえないポジションに立たされている。立たされ続けている。むごい在り方の。むごい在り方で。

[E:sun]

国家機構としての役所が、総理大臣でも動かせないほどの何物かだとしても、地方自治体はどうだろう。大統領である市長は、総理大臣よりは役所を動かすことはできるだろうが、自治体の役所は国家役所の下位組織のような風情をたくさん残している。縦割りの補助事業や通達や、政府官僚が自治体をコントロールする仕組みは蜘蛛の巣のように張り巡らされている。市長の裁量でできることは、財源も含めて限られている。そういう状況の中で、沖縄の自治体の市長たちは民意の後ろ盾を得つつ踏ん張ろうとしている。

岡田外務大臣がつくるという『やむを得ない』とおもう状況は、その踏ん張りの足元を崩すということである。明白な地方自治への介入宣言であり、その時点で、もうこの国は憲法体制を捨て去っている。

[E:cloud]

少なくとも自公政権では沖縄側の同意を取り付けるために、ありとあらゆることが行われた。それに呼応した沖縄の勢力があったのは厳然たる事実だ。そして、その勢力は消尽したわけではないのも事実だ。

反対を声高にいう市長が誕生したからといって、その市長を支持しなかった条件付賛成の有権者はいないわけではない。名護市の内外からまるでそれらの人々が急に透明人間の如く消えたように語られる(主に反対派の人々の)発言には違和感を禁じえない。同様に、昨日今日湧いたように語られる発言にも。

考え方の違う人々ともに、私たちは社会を構成しているのであり、その考え方の違いを明確にして戦う政治が必要である。政治的に敵対する人物を透明人間にしてはいけない。条件付賛成の稲嶺恵一県知事や岸本建男名護市長が存在しているときに、反対して戦っていた人々は(私も含めて)存在していなかったわけではない。現在の名護市長はその当時、基地建設を是認する役所の幹部であったことは厳然たる事実である。

人は変わりうるものだし、であるからこそ、私たちは働きかけ、変える(変わる)ための努力を続けるのである。社会も、政治も、そのようなダイナミズムを内包している。私は、世界への、他者への信頼を完全に喪失することはできない。

[E:rain]

総理大臣をやめたひとが、役所の意思が固くて辺野古にアメリカの基地をつくることになったといったらしい。私たちは沖縄で生きる民であることをやめることはできないので、どれほど役所の意思が固かろうとも踏ん張るしかない。一国の総理大臣の職がお気楽なものだとは思わないが、やめられるだけお気楽だとは言ってのけたい。外務大臣は、沖縄の民の踏ん張りを切り崩してやると恫喝しあからさまに沖縄の民に敵対してみせてくれる。なんという国家政府であろうか。怒りは深いところで胎動している。

デモクラシーはどこにあるのか、デモクラシーとはなんなのか。デモクラットはどこにいるのか。ディキランヌーの私には答えなどなにひとつわからないが、問いだけは手放さない。

[E:thunder]

沖縄は独自の文化をはぐくんできた、我が国が誇るべき地域です。その沖縄が先の大戦で最大規模の地上戦を経験し、多くの犠牲を強いられることとなりました。今月23日、沖縄全戦没者追悼式が行われます。この式典に参加し、沖縄を襲った悲惨な過去に想いを致すとともに、長年の過重な負担に対する感謝の念を深めることから始めたいと思います。 菅首相所信表明演説


感謝などいらないから、踏んでる足をどけてくれないか。私は温厚なヘタレだからキレないが、ウヤファーフジにその「感謝」は、「あんちまでぃ ちゅー うしぇーんなぁ、ぬがらちならん」と叱られると思う。ましてや死んでも死に切れない地獄の戦火で逝った先輩たちには…

[E:end]