みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

11万6千人の県民大会についての断章

0930taikai 昨日の県民大会を報道する琉球新報の今日の朝刊には驚いた。一面と最終面の見開きで写真or記事を展開している。ま、復帰後最大集会だからね。それにしても燃えてる。
この件については機会を改めてじっくり考えたい。たくさんの切り口がある。線の引き方によっては、現状を変革するビジョンがみえてくる気がする。昨日のエントリーへのゴンベイさんのコメントにも書いたが、問題はこれから。

悪名高い(?)自公の選挙協力は、この沖縄からだったのだが、昨日の大会には旗を翻して公明党さんも参加していたらしいことを、知人のmixiの日記で知った。
今日は、自民党政権を終わらせるこれからを考えるための覚書として思いつくままにメモしておく。

自公政権が誕生する選挙における《自公協力》は沖縄からだった。それまでは革新勢力で野党の一員で“平和勢力”であったはずの公明党さんが、中道を標榜しだし、98年の名護市長選挙(これはまだ非公式)、沖縄県知事選挙(これは大田県政与党からの公式な離脱)で自民党選挙協力し、新基地建設への道筋を大きくつくっていった。

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95年以降は日米安保が大きく転換した時代だった。SACO合意、新ガイドライン、駐留軍 用地特措法再改悪=県知事や土地収用委員会の権限などもぶっ飛ばして国が土地を取り上げることが可能にされた。有事法制、国旗国歌。国家は剥き出しだった。そんな流れの中で、 97年には名護市民投票が新基地建設に「反対」の結果を出したが、その後の首長選挙等では保守化の傾向は止まる事がなかった。自公協力は深く根を張る。

11万6千人も集まったからって、沖縄の危険な保守化傾向に歯止めがかかるのかはわからない。政権党の一員である公明党は、沖縄の施政権が日本に復帰(それまでは戦後ずっと米軍統治)したことを、日米の「文化力」だと持ち上げ、新基地建設や米軍再編については本質や実態に目をつぶり、政府の一員としてまるで事実のごとく「沖縄の負担軽減」を吹聴する役割をになっている。そこに変化が生じるだろうか。自民党よりは可能性はある。

公明党が政府の一員としてつくりだしている現実が、今回の教科書検定における沖縄戦の集団強制死への日本軍の関与の否定(ないしは判断を宙吊りにして遺棄する)につながっている。公明党さんの内部には、右傾化する自民党に付き合いすぎることで党勢が後退することを懸念する意識と声が確実にある。全国レベルでそうなのに、沖縄戦を体験し、女性学会員を中心に平和運動・学習の意欲と行動が強い沖縄で、そういった懸念がないはずがない。内部の矛盾軋轢はどこで臨界点を迎えるか。迎えないのか。

公明党さんを擁護する気はさらさらないが、今回の大会に大挙して参加した学会および公明党が、どうなっていくかということは気にしておく必要がある。周知の通り、浮動票などいっさい取りえないだろう公明党が存在しうるのは、宗教団体(学会)の力以外にありえない。黒いものも白いとして投票する人々が彼ら彼女らの強みなのだ。自民党は、公明党(学会)との選挙協力なしでは選挙を戦えないほど足腰は萎えている。ということは、公明党(学会)の動向如何では、政権党としての自民党の命運は尽きることが充分ありうる。

政府は、教科書検定は公正中立であって、政治の力の関与は及ばないとしている。そのレトリックで、外務省も文科省も、政府・国をあげて中国や半島からの歴史認識に対する批判や懸念に対応してきた。今回の沖縄の11万6千人近い集会を受けて、そのレトリックを崩すのか否か。崩した場合に、これを沖縄だけ特別バージョンということが許されるのか否か。植民地政策で行なってきた行為および歴史認識があらためて問われることになる。

政府としては、日本軍の関与がまったくなかったとは言ってないわけだから、教科書の記述変更については、出版社からの変更申し出を受理し許可するという対応で処理することはできるかもしれない。そのハードルをやたら高く見せて、それを越えることで満足感を得ていただくというふうに、沖縄のガスを抜くということは充分考えられる。そうでもしなければもたないだろう。

歴史教科書において集団強制死の日本軍関与が記述されれば、「民衆勝利せり!」とはいかない。教科書検定における、時の政権の政治的関与は明らかであり、このような操作の仕組みそのものをカイカクしなければならない。政治に大きく左右されない歴史認識を持ちえるのかこの国は。政治=選挙はそのレベルにあるのか。この攻防はかなり難しい闘いになる。どのように脱構築していけるのか、民衆レベル、政治や行政、学術研究の分野も巻き込んで、ダイナミックな展開になろうことは想像に難くない。

ともあれ、問題は、私の一番の関心は、沖縄がどのようになっていくかだ。

政府は、沖縄の保守勢力からの支持調達回路を失っては、安保政策そのものが立ち行かなくなる。11万6千人という数は脅威である。これは自ら参加した沖縄の保守勢力にとってもそうである。カネと振興策というフェイクをかざせば、どうにでも誘導できる選挙で勝ってきたが、今後ともそれで行けるだろうか。政府は沖縄の動向を一生懸命探っているだろう。沖縄の自民党・保守勢力であろうと、政府自民党としては探り誘導しなければならない相手だ。

予測など意味はなさないが、私は自公協力は瓦解する予感がする。しかし、そのときは、日米安保体制が大きく変化するときである。

小沢民主党の参院選での圧勝をフロク扱いすることはできない。しかし民主党政権交代を実現するには、自民党との相違点を明確にし、衆院選で過半数をとる必要がある。選択の争点を明確にすることが大事だ。どっちになっても同じだったら、国民多数はお試し済みの安心安定を選択するだろう。

いちばん大きな相違点を「生活」問題に的を絞ろうとしているのはただしい。しかし、いちばん大きな相違点は、対米追随で憲法違反の疑惑を押して自衛隊派遣をする政府自民党か、国連主義で自主独立路線を歩んでいくかだろう。郵政民営化や国富を米国に捧げるような政府に対しては、保守系からも批判は大きく、この相違点はある一定の効果を期待できる。

最大の問題は、安全保障政策である。現在は、インド洋で無料ガソリンスタンドを開くか開かないかの話だが、自主独立路線は戦後日本のあり方が大きく変わることである。アメリカの核の傘のもとで安全保障を選択してきた日本。これらの問題が本格的に論じられるようになったら、憲法の問題も巻き込んで、国のありかたを大きく変える論争になる。
日本国民はそのような議論に耐え切れるだろうか。参院選の社共の敗北をどのように考えるべきか。(当の党がどう考えているかもお寒い)

対米追随か自主独立か、ここを通り抜けていかなければ、九条が生きる道はない。ましてや護るなど論外だ。九条と安保がセットであるという現実を見て見ぬふりするのも限界に達しつつある。多くの国民は、未来永劫、沖縄を放置しアメリカにくっついて平和が貪っていけると思っているのだろうか。世界は動いている。

憲法は主権者からの政府に対する命令である。理念などと神棚に飾っていると、形骸化していく。もはや死に体である。「主権者」というものは抽象的な概念なのかもしれない。でも、私たちがそうであると概念が規定しているのなら、「なってみせようじゃない現実で」などと気が弱いくせに短気な私はすぐ思ってみる。

昨日の、11万6千人の大集会は、主催者、参加者、すべての人の思惑を超えて、現実を動かしていくかもしれない。

…その場に君はいなかったじゃないか、って。すみません、あまり人の多いところは嫌いなんですよ。それと度し難い個人主義者で、みんなとなにかするのって好きじゃないんです。後ろからゴミでも拾いながらついていきますから。

ということで、だれの参考にもならない、メモを書き残しておく。

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あぁ、今日は、旅先の家族に知らせるための、私の「手作り料理中継」のエントリーを書くつもりで、枕に少し昨日の集会に触れておくかと思い書き出したのに…、日をあらためます。これ以上、ブログ書いていると、仕事に支障がでる(笑)。

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