みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

「頭越し」考

本日の沖縄タイムス朝刊一面で、【再編「頭越し」を否定/普天間3年内閉鎖「困難」】の見出しで、守屋防衛次官の発言が報道されている。

守屋防衛次官は 、官僚国家である日本の政治において最終決定権を有すともいわれるポストである事務次官を、慣例だと1~2年のところを4年連続して務めている。
守屋氏の権勢は、「官邸の歴代要職に上手に食い込み、併せて、後継者を潰していった結果」(防衛庁幹部)ともいわれるが、この数年の防衛庁のゴタゴタにおける守屋氏の立ち回りは着目に値する。(小久保一郎・世界02年8月号)
米軍再編で重要課題であった普天間移設案見直しで、小泉首相に直訴し信任を得てアメリカ相手に沿岸案を飲み込ませたのは守屋次官である。(『米軍再編』久江雅彦・講談社現代新書123頁)

その守屋防衛次官はどのような発言をしたのだろうか

【東京】防衛庁守屋武昌事務次官は十一日の定例会見で、仲井真弘多知事が米軍普天間飛行場名護市キャンプ・シュワブ沿岸部への移設案(V字案)を「地元の頭越しの米軍再編合意」としていることについて、移設先の名護市などがV字案に理解を示していることなどを理由に、「頭越しとは理解していない」と述べた。仲井真知事が目標に掲げる同飛行場の三年以内の閉鎖状態の実現性には、代替施設の工期が八年あることをあらためて説明、困難との見方を示唆した。

守屋次官は「頭越し」との指摘に、「(日米が)政府案で話し合って大体の考え方を決めたのは事実だ」と説明。昨年十月の沿岸案合意は、県や名護市意思決定に加わらない形で日米協議が進んだことを認めた。

一方で「十月に合意してから県、名護市、北部町村会に説明した。北部の関係市町村とは住宅地の上を(米軍機が)飛ばないようにしてほしいということで、(新たに)V字案で合意した経緯がある」として、四月に名護市などとV字案に関する「基本合意書」を交わした経緯を強調。

「その間、一貫して県はその案に乗ってこなかった。頭越しに国が、あるいは北部の市町村が進めたとは私は理解していない」と述べた。

守屋次官はレトリカルに論旨をずらし自らの主張のみを強調している。

次官の言い分を噛み砕くと、昨年10月29日の日米合意再編合意)は頭越しといわれればそうかもしれないが、その後、名護市や北部町村へ合意内容を説明し、北部関係市町村の要望を取り入れV字案で合意したのだから、頭越しではないというものである。

次官は、昨年10月の日米合意文書「日米同盟:未来のための変革と再編」を、「大体の考え方を決めた」と《中間報告》のように言っているが、アメリカ側は中間報告ではないと明言しており、事実、合意文書には《中間報告》などという文言は一言もない。96年のSACOでは中間報告と最終報告があったが、それとはわけが違うのである。

今年5月1日に2+2で共同発表されたのは、昨年10月を受けての《米軍再編・最終報告》ではなく、「再編実施のための日米のロードマップ」(再編ロードマップ)であった。

米軍再編に関する再編合意は、間違いなく関係自治体の「頭越し」に行なわれた。どんなにレトリックでごまかそうと、この事実は動かしようがない。

次官が「頭越し」ではないと強弁する根拠は、再編ロードマップの合意に関して、防衛庁名護市・北部市町村とV字案で基本合意しているという事実である。

再編ロードマップにあるV字案は、再編合意における沿岸案とどこがどうちがうというのか、集落上空を飛ばないという一方通行にどれほどの強制力と確実性があるというのか。規模も拡大し被害すら拡大するリスクが拡大しているV字案はブヒ字案としか呼べない

いずれにしても、「頭越し」でしかないものを、「頭越し」でないと守屋次官が強弁する根拠は、名護市長や北部町村の首長たち(東村長・金武町長)が 防衛庁と基本合意したことにある。問われてしかるべきは、北部の首長たちであり首長を選び出した有権者である。しかし、「頭越し」で日米合意してきて、自 治体に受け入れを迫ってくる政府に免罪符を与えるわけにはいかない。

県知事選挙の結果もあり、沖縄の政治状況が、米軍再編に係わる全国の自治体に与える悪影響は大きなものがある。沖縄の地から、この問題をどのように考え紐解いていくかは重大である。

新聞記事では

一方、県の花城順孝知事公室長は同日、「米軍再編の中間報告でも、最終報告でも政府は決定したことを通知する形だった。日米協議の過程で県や地元に説明がなかったことを『頭越し』と認識している」と主張した。

との沖縄側の主張が出ている。沖縄県が米軍再編日米合意を「中間報告・最終報告」と把握することはしていては守屋次官の掌中である。このままでは、今後の議論の展開に期待できるものは少ない。

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Uri 今日は、気持ちのいい晴天だった。2kほど離れた友人の経営する工場に用事があり、時間的にも少し余裕があったので、道草を食いながら歩いて行った。

沖縄に帰ろうかどうか考えながら一時帰省していた1991年によく散歩していた、小さなダム沿いの小道を歩いた。

この道で、トコトコ歩くウリ坊(猪の子)と出遭ったことを思い出した。今日は遭えなかったけどね。あの時、沖縄に帰ろうと思ったような気がする。もうあれから、15年も経つのか、光陰矢のごとしである。