宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

ある戦いの記録(3)

海兵隊がそこ(沖縄)にやってきて

1956年12月28日、レムニッツアー民政長官の方針に沿って、久志村辺野古一帯の七十八万坪の土地を地主との直接契約で、使用権を一括して買い上げた。サンキ氏のいう「誘致」が成就した結果である。

当時、民政副長官であった(その後、初代の高等弁務官になる)ジェームス・E・ムーアはその時の対応を次のように語っている。

海兵隊がそこ(沖縄)にやってきて、われわれはもっと土地を手に入れなくてはならなくなった。民政府としては、時期も悪く、また、厄介なことが持ち上がってくるな、と悲観的だった。しかし、われわれは有能な係官をもっていて、彼は村々の住民に、キャンプ(基地)ができると、そこからカネも落ちるし、従業員を採用する、いいことがある─と説得した。それで、その件については、めんどうなことにならなかった」

(『世替わり裏面史─証言に見る沖縄復帰の記録─』琉球新報社1983年/346ページ)

ムーアのいう有能な係官がサンキ氏かどうかはわからないが、USCARの行政官であったバーガー准将の下で通訳をしているサンキ氏が、久志村長らと交渉にあたったかもしれないことは想像できる。

辺野古誌』でも、

「USCAR土地係官による水面下での地主との直接交渉が続けられていた」

「これ以上反対を続行するならば、部落地域も接収地に線引きして強制立退き行使も辞さず、しかも一切の補償も拒否する等と強硬に勧告してきた」

(『辺野古誌』632ページ)

ことなどから、区長含む5人の土地委員を設置し条件を付けて交渉していったことが記述されている。当時、土地をめぐる四原則を掲げた沖縄住民の「島ぐるみ闘争」に手を焼いていたUSCARは、辺野古区のこの状況および交渉結果を最大限に活用すべく

土地委員の一人に依頼し、1956年11月極東放送に於いて全軍に向けて賛成意見を発表させた。(『辺野古誌』632ページ)

 

米軍は翌57年1月19日に琉球放送に対して

「一括払いに賛成する辺野古住民の声を琉球放送から放送せよ」

(「琉球放送十年誌』1965年12月発行/23ページ)

という命令を発し、15分にわたって放送させてもいる。

 

当時、米軍は「島ぐるみ闘争」の一角を崩したとキャンプ・シュワブの土地接収を喧伝しつつ、その他にもオフ・リミッツなど持てる権力を行使し沖縄の「島ぐるみ闘争」潰しに躍起になっていた。

下記の写真は、1957年7月4日、USCAR撮影。久志村辺野古での基地建設工事再開祝賀会。この日、初代高等弁務官に就任したばかりのジェームス・E・ムーア陸軍中将と当間重剛行政主席が出席し、盛大に行なわれた。

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だが、燃え上がる「島ぐるみ闘争」に対して米軍当局は経済面で譲歩することになる。1958年4月12日、ジェームス・E・ムーア高等弁務官は軍用地料の一括払い中止を公表する。結果、新規接収は黙認され、損害補償に関しては未解決だったが、同年12月末に、立法院が関係法案を可決し、土地問題に決着がつくことになる。

沖縄の支配者である米軍

『The Birth of a Marine Base』でサンキ氏が56年当時の出来事と語る「誘致」は、すでに55年に米軍側に久志村辺野古一帯の新規接収計画があったという大前提や、接収通告もしたという事実を無視している。強制接収に怯えつつ自らのせめてもの権益を守ろうとする人々の苦悩、秘密裏に行なわれた米軍側と地元住民との交渉を、経済的な側面にのみ着目し「誘致」と宣伝する。当時の沖縄の支配者である米軍側の居丈高な論理に沿ったものである。

沖縄にルーツを持つ米国人のサンキさんとしては、貧しい沖縄に対していいことをしてあげたという自負があるのかもしれない。

あれから半世紀を経て、サンキさんの書いた「The Birth of a Marine Base」を根拠に、キャンプ・シュワブが地元の「誘致」でできたとする喧伝は、端的に言ってデマでありシュワブ沿岸域を埋め立て軍港付きの海兵隊新基地建設を強行する現在の状況をごまかすために行なわれる。沖縄はもう米軍の施政権下にはない。日本国政府の「銃剣とブルドーザー」に怯え屈するわけにはいかない。新たな「島ぐるみ闘争」は、経済的側面だけで譲歩し妥協の道をさぐることもできないだろう。「裏切られた復帰」も含め、沖縄は日米両政府に翻弄された果てに根源から自らを問い状況に対峙している。

 

下記に沖縄の先輩であるサンキ氏に敬意を表し、「北米養秀」にあった氏の略歴抜粋を置いておく。

サンキ浄次(旧姓。山城清)氏略歴

1918年 米国ハワイ州カウアイ島コロアで生まれる。

1924年 兄姉とともに沖縄に移住(与那城町字饒平)。与勝尋常高等小学校、沖縄県立第一中学校。

1937年 ハワイに戻る。

1939年 ロサンゼルスに渡りポリテクニック高校、ロサンゼルス・シティー・カレッジ、UCLAで学ぶ。

1941年 米国陸軍に入隊。陸軍語学情報兵として太平洋戦争に参加。

1946年 結婚。

1953年 在沖縄米国民政府・民政官の語学副官として沖縄赴任。

1958年 米国陸軍情報部教官(メリーランド州

1963年 在沖縄米国軍政府・高等弁務官の語学副官として沖縄赴任。

1967年 陸軍中佐として退役。引き続き民政官の通訳官を務める。

1977年 米国に帰国。

1978年 マサチューセッツ工科大学(MIT)日本事務所長に就任(東京)。

1981年 MIT副総長特別補佐官。

1989年 米国に帰国(ロサンゼルス近郊北ハリウッド市)。北米沖縄県人会長、南加県人会連合会会長、北米養秀同窓会会長等を歴任。

1995年 9月24日逝去。享年76歳。