みやぎブログ

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ある戦いの記録(2)

『The Birth of a Marine Base』

「北米養秀」(社団法人北米養秀同窓会十五周年記念誌刊行委員会1995年)は沖縄県立図書館に所蔵されていた。そのなかに、サンキ浄次氏の『The Birth of a Marine Base』は所収されていた。

新聞報道や惠隆之介さんが、『The Birth of a Marine Base』から割愛しているのは、サンキ氏が桜坂のバーで当時浪人中の沖縄保守の大物政治家・西銘順治氏と飲んでいるところに、久志村長の比嘉敬浩氏が近づいてきて、サンキ氏がすぐ久志村長であると気づくなどのくだりである。どうでもいいエピソードのようだが、偶然なのか、サンキ氏はなぜ久志村長とすぐ気づいたのか、いろいろ興味深い。

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久志村長とサンキ氏とのやりとりは、新聞報道や惠隆之介さんが著書で引用しているのとほぼ同内容である。書かれていることが真実か否かを確認するには、サンキ氏がUSCAR(琉球列島米国民政府)の民政官に提出したという「琉球民政府長官に宛てて提出された公式な誘致文書」「提供される土地の地図」「村長と村議会議員全員の承認署名」の存在の確認が必要だが、沖縄県公文書館等で探してみたが私には確認できていない。

そういう意味では、デマであると確信を持って断定できないが、私はせっかく『The Birth of a Marine Base』の原文に出会えたのだから、あらためて当時の状況を調べながら、この「誘致」の確度を検討してみた。

海兵隊の日本本土からの移駐

まず、サンキ氏は1956年頃のエピソードとして語っているが、キャンプ・シュワブの計画はそのころどうあったのか。誘致の陳情要請により、米軍が検討し陸・海・空が断り海兵隊だけがのってくるという話に信憑性はどれほどあるのか。

当時は、サンキ氏も手記で語っている通り、海兵隊の第三師団を沖縄に移す過程にあった。

1955年1月に米軍は久志村を通じて返野古区に対して「久志岳・辺野古岳一帯の山林(現在のシュワブ演習場部分)を銃器演習に使用したいと通告」している。久志村は臨時議会を招集し反対決議をし、民政府等の関係機関への陳情を行うとともに阻止行動を起こしている。同年7月22日には現在のシュワブ兵舎部分である辺野古崎一帯の新規接収を予告してきている。翌8月には米陸軍工作隊(DE)による測量実施を拒み、辺野古区は久志村に軍用地反対を要請している。(辺野古区事務所1996年発行『辺野古誌』631ページ)

疑り深い人々は、久志村および辺野古は自ら海兵隊基地を「誘致」したのに、後付けで当初は反対したとしているんだというかもしれない。だが、シュワブが新規接収予定地だったことは1955年当時の沖縄では周知の事実でしかない。

1955年10月23日に米国下院軍事委員会分科会の調査団(プライス調査団)に対して、沖縄側が提出した折衝資料の中に「沖縄の軍用地分布図」(画像=『情報第4號 軍用地問題はこう訴えた』行政主席官房情報課1956年3月1日発行所収)がある。その図の中には、久志村・宜野座村にまたがる海兵隊の演習場を含む「キャンプシュワブ」部分と国頭村・東村にまたがる海兵隊の「北部演習場」部分が「新規接収予定地域」として描かれている。

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1956年に桜坂の夜に出会ったサンキ氏と久志村長が「誘致」の相談をする前年である。

 

なにゆえにサンキ氏は、少し冷静に考えれば「誘致」などという表現は過ちであることがすぐわかることをまことしやかに「誘致」と書いたのか。

私は当時の新聞記事等にあたりながら、『The Birth of a Marine Base』について考えた。

(つづく…次で一応、終えます)