宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

現在の辺野古新基地建設に沖縄は一度たりとも合意していない

下記は2014年1月19日の名護市長選結果を受けて、琉球新報文化面連載(「オール沖縄」の行く先 名護の選択・意味と潮流)の一つとして1月23日に掲載された拙稿。(たしか20日に依頼され急ぎ書いて翌日に送信した)

事態の変遷と現在を考えるための参考になるかもしれないので、ここに公開しておく。

f:id:nagonagu:20160309124712j:plain

「オール沖縄」の行く先 名護の選択・意味と潮流2

潰えた「条件付き」/17年の結論に敬意を

 今回の名護市長選の結果で明らかなのは、1997年に比嘉鉄也名護市長が先鞭(せんべん)をつけ、1999年に稲嶺恵一県知事と岸本建男名護市長がつくりだした、辺野古新基地建設を受け入れる構造が完全に瓦解(がかい)し、消尽したということである。

 日本政府に普天間飛行場の「県内移設断念」を求めるオール沖縄的状況は一朝一夕に成ったのではなく、多様な議論と紆余(うよ)曲折の末に到達した一致点であった。この一致点が自民党沖縄県連の政府への屈服で瓦解したとしても、民意は揺るぎなく一致点をつかみ続けていた。そのことを明確に示したのも名護市長選挙の結果である。

「条件付き」の隘路

 1997年に、名護市有権者が直接請求した「市民投票条例」は原案が否決され、当時の比嘉市長と市議会多数派により「環境対策や経済効果に期待できるので賛成」などの「条件付き」が入った4択に修正され可決した。あの時、その後沖縄を翻弄(ほんろう)し続ける新基地建設受け入れへの回路が開き、名護市は隘路(あいろ)にはまり込んだ。

 名護市民投票では反対が過半数を上回ったが、条件付き賛成も少なくなかった。市民投票後に上京した比嘉市長は、首相官邸で新基地建設受け入れと、同時に市長辞職を表明した。現在でも政府や自民党国会議員が語る「全国で名護だけが唯一『受け入れた』自治体である」のオリジンはそこにある。

 比嘉氏の後継である岸本市長は1999年に稲嶺知事の要請を受け、七つの「条件」を付して新基地建設を受け入れた。政府と沖縄の協議会で、沖縄側からの条件が棚上げ・骨抜きにされていく中で、基地建設計画だけは合意され振興策が講じられていく。反対する住民の粘り強い抵抗で建設計画はデッドロックに乗り上げ、在日米軍再編で計画が大きく見直される。稲嶺知事と岸本市長が突きつけた条件は、棚ざらしにされたまま葬られた。

 名護市では岸本氏の後継である島袋吉和市長が、米軍再編協議で取り沙汰されていた「陸上案」や陸上に掛かる「沿岸案」に反対を公約し当選したが、当選して数カ月で「沿岸案」の滑走路をV字形に変更する修正案で合意した(2006年)。稲嶺知事および後継である仲井真弘多知事は、地元名護市が認めるならというスタンスで事実上容認していく。

 4年前、2010年1月の名護市長選は、前年の夏に中央政府民主党政権交代するという激変の中で行われた。前回の当選直後に公約に反し新基地建設に合意した島袋氏は落選し、基地建設に反対する稲嶺進新市政が誕生する。そこからオール沖縄で普天間飛行場の「県内移設断念」を求める潮流が動きだす。

 自民党沖縄県連も中央政府民主党政権であるがゆえに「県外移設」を強く主張する。自民党政権が復活する一昨年の総選挙でも、沖縄県連の公約は「県外移設」であった。しかし、昨年末からの政府与党の恫喝(どうかつ)に屈して辺野古移設を容認。普天間基地「県外移設」を主張していた仲井真知事も辺野古新基地の埋め立て申請を承認したが、それでもなお「県外移設」を主張して公約違反ではないとうそぶいている。

 そして今回の名護市長選挙である。

明確になった争点

 辺野古新基地を「条件付き受け入れ」していた沖縄側の条件は米軍再編協議で日本政府によって消された。条件なしの「受け入れ」は、4年前の島袋氏の現職落選という名護市長選の結果から明らかなように、民意により否定されている。沖縄そして名護市は、民意の裏付けという正当性を持って無条件で新基地建設受け入れをしたことは一度たりともない。

 新基地建設受け入れの「条件」とは何だったのか。建設不可能な高いハードルで沖縄の抵抗だったという人々もいるが、そのハードルである「条件」が空無化していくのに「受け入れ」だけは生き残るプロセスを、私は名護市議会で目の当たりにしてきた。2005年に日米で米軍再編協議が大詰めを迎え結論を得ようとしている最中に、当時の岸本市長は陸上案への懸念から、辺野古のリーフ(岩礁)内を埋め立てる浅瀬案を認める発言までしている。

 これらの動向から分かることは、沖縄が新基地建設を受け入れるために付した「条件」は、日米安保と沖縄の現実の中ですべての関係者に見放され、最後に日本政府により葬られたということである。いかなる条件も、沖縄において人権侵害そのものである米軍基地を、沖縄が自ら受け入れ新設させることの緩衝材にはなりえない。「条件」は消尽すべく消尽した。

 一連の動向の結果、今回の名護市長選は「条件付き賛成」対「反対」という構図から、「推進」対「阻止」へと争点が明確になった。そして選挙の結果、1997年の名護市民投票で噴き出した「条件付き賛成」の流れは完全に潰(つい)えて「阻止」という民意が導き出された。17年かけて新基地建設受け入れの回路は閉ざされ、名護市は隘路(あいろ)から抜け出た。

 稲嶺市長を孤立させてはならない。名護市民が17年余の辛苦から導きだした結論に最大の敬意を表し、沖縄は総力を尽くして軍事植民地状況からの脱却へと歩みだす時である。沖縄が1972年に日本国憲法の下へ復帰した意義はその道にこそある。

(了)