みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

『英霊か犬死か―沖縄から問う靖国裁判』

我が家には小さなテレビがあるにはある。いつもは電源もアンテナの線も外され放置されている。もちろんアナログである。おそらくデジタルテレビなど購入しないと思う。2011年7月から我が家はテレビ放送と無縁になるだろう。

年に数回しかつけないテレビをセッティングして、番組が始まるのを待った。2010年10月2日午前10時。久しぶりに視たテレビのドキュメンタリー番組。沖縄の地元の放送局、琉球朝日放送(QAB)の制作した『英霊か犬死か−沖縄から問う靖国裁判』。感想を少しだけ記しておく。


英霊か犬死か ~沖縄から問う 靖国裁判~ (1)

国家から死者を取り戻す

死者を英霊とすることに至高の価値を見出す人々からすれば、犬死という言葉はあまりにも挑発的で侮蔑的で耐え難いものだろうと思う。死者を英霊と呼ぶか犬死と呼ぶかは、生きている者の行為であり、呼ばれる死者はすでに死んでいる。
テレビカメラの向こうで「沖縄靖国裁判原告」の人々が発する「犬死」という言葉は「沖縄戦」の実相に迫るキーワードであり、どう生きるのかと「生きる」ことの価値判断を迫る言葉である。

私は、幾多の非業の死、沈黙に思いをはせながら、「犬死」と声にすることで沖縄戦で死んでいった人々に相対したい。それが国家による戦争という愚かな行為を憎み、歯止めをかけるべき今を生きる私たちの務めである。決して「犬死」と切り捨てるのではなく、死を深く抱きしめ突き放し、「英霊」と呼ばれる死者の群れに自らと愛するものを並ばせない覚悟。
沖縄靖国裁判は、そのような群れに並ばされた死者を、遺族が国家から取り戻そうとする営為である。

過去ではなく現在である

避難していた洞窟(ガマ)を日本軍により追い出され死んでいった人々が、壕提供の栄誉で英霊にされる。スパイ容疑で日本軍により惨殺された沖縄人が、秘密を守るために貢献した英霊となる。ゼロ歳児も二歳児も英霊とされる。
敗戦後、GHQに禁じられた軍人軍属への恩給に代わるものとして、日本国政府は「援護法」(1952)を創設し、それを沖縄戦に適用し沖縄戦における死者を戦争協力者としてからめとってゆく。靖国側の弁護士による遺族=原告への発言に、政府の陰湿な精神が凝縮される。「戦争協力をしたと嘘の申告をして、お金をもらっていたのですね」。政府による地獄の沖縄戦を生き残った遺族への補償は、人々の死への謝罪ではなく戦争協力への感謝である。そうして死者は自動的に日本政府から靖国へと送られていく。このような国家と靖国神社の行為が、戦前・戦中ではなく戦後民主主義国家に生まれ変わったはずの日本国政府の行為であることに留意すべきである。これは過去ではなく現在であり、放置すればそのまま続く未来である。

ドキュメンタリーの彫る深く鋭い現実

日本という国は戦前・戦中・戦後と地続きで来ていることのなんと多いことか。沖縄靖国裁判の原告を追う、このドキュメンタリ番組でいまさらながらに想起する。戦後の「天皇メッセージ」も然り、本土防衛のための沖縄戦(捨石作戦)然り、現在の新基地建設強行問題然り。戦後65年を経て、いまだに米軍は沖縄に上陸したままで、ここ(沖縄)を拠点/経由地にしながら地球上のすべての地域に殺戮に出かける。日本国政府は沖縄の反対の声を無視し米軍の基地を造ろうとしている。そうして沖縄に「率直に感謝」を表明する。

なんとも いたたまれない現実。

沖縄はこの現実から先を目指して、違う地平を目指して歩もうと懊悩呻吟している。この苦悩と叫びが、背反するかのようなおおらかな歌と踊りのなかに共存する。原告の金城実氏の踊る道化ぶりは修羅の休息・笑いである。いたたまれなさを打ち破るエネルギーが、人々の日常の表現の中に宿る。『英霊か犬死か』。ドキュメンタリーの彫る現実は深く鋭い。

原告の二人のシンメトリーが興味深い。動の金城実、静の安谷屋昌一。金城氏の父母への熱き思い、愛情ゆえに断罪せざるえない父の行為。金城氏は父を「犬死」と呼ぶことで、父をサルベージしようともがいているようである。父が靖国に奉られている事で、その死を無駄ではないと思っていた母は、裁判傍聴を通じて「実(みのる)は間違っていないかもしれない」と記す。安谷屋氏が、幼い兄弟でさまよい歩いた海岸。母の死という現実に、子どもたちの泣き声は合唱となる。埋められた姉。「洞窟の入り口で鳥のように眠って座った」子どもたち。安谷屋氏が語る「犬死です」という静かな言葉は、限りなく深く重い。

戦争という国家システムの中の「靖国神社

戦争という国家システムの中に、重要なポジションを占める「靖国神社」。「沖縄戦」を包含するために沖縄戦で死んだゼロ歳児も、軍属として神と奉る靖国神社。スパイ容疑で惨殺して秘密防衛の協力者として神と奉る靖国神社。そこから死者を引き剥がそうとする遺族の行為は、戦争という国家システムを許さない全うな行為である。沖縄靖国訴訟。10月26日には判決が出る。
この国がどれほど過去の戦争を反省し、憲法に明記された国権の発動としての戦争を放棄する意思を持っているか(現在の戦争も然りである)。注目に値する。

金城実は、靖国とまったく違う場所として、自らの胎盤を流した集落の聖地「産り川(ウマリガー)」を位置づける。靖国の英霊たちは、その死の直前に国家を想ったのだろうか。天皇陛下万歳ではなく、母を故郷を愛する人を想ったのではないだろうか。死者を天皇陛下万歳と叫ばせるカルト国家から解き放つべき、そのような国家として生まれ変わったのではなかったのか日本国は。

沖縄という地の足元を掘る

『英霊か犬死か―沖縄から問う靖国裁判』のなかで、問われているのは「沖縄靖国裁判」であるが、それは日本国と沖縄の根源的な関わりであり、その地点は戦争する国家そのものを問い、沖縄の現在を問う。日本国憲法の精神が沖縄の視線から試されている。沖縄という地の足元を掘ることでしか創りえないドキュメンタリ番組であり、琉球朝日放送(QAB)の面目躍如である。今回のQABの仕事に、いちウチナンチュとして「率直に感謝」したい。

 

 

幾多の死に、合掌。ウートート。絶対に、これ以上の米軍基地を造らすことなく、基地のない沖縄を目指し歩むために、我々を叱咤し共にあってください。