宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

状況に対する雑感

誤解を招きそうだが、まったき個人の意見として、あまり整理もせずここに書いておく。

私は、鳩山首相やなんとかいう名前の官房長官の発言に、あまり怒ってはいない。かといって哀れんだり蔑んだりもしていない。

冷静に考えて、私が思うに追い込まれているのは日本政府である。米国は地元同意がないプランに対しては交渉のテーブルにもつけない趣旨の発言をしているらしい。かっこつけやがってと思いもするが、日本政府のほうが赤子と大人ほどレベルが違いすぎる。沖縄が、シュワブ陸上案や与勝沖埋め立て案で同意する道筋はない。

「少なくとも県外」と発言してきて、何ゆえにこんな出口に出るしか脳がないのか。不思議である。日本政府は日本国民が知らされていない決定的な「密約」を、米国としているのではないかと疑いたくなるほどである。

「復帰」の際の「5.15メモ」などに明らかな、沖縄の米軍基地の自由使用などの日米合同委員会合意をして、日米安全保障条約に沖縄に基地を置き続ける裏書があるかのごとく語る人々もいるが、条約および条約に準ずる地位協定にはそんなことは一切書かれていない。

それでもなお、沖縄の米軍基地を削減・撤去するのに、こんなにもすったもんだしたあげく、沖縄の県内移設しか出口がないというのは、陰謀論者のごとく「密約」の存在を指摘したくもなる。

しかし問題は、米海兵隊の存在が沖縄で加重な負担になっていった経過や、さまざまな「政治」を歴史的にみることで、不確かな陰謀「密約」に起因するとはできない。

海兵隊が、ほんとうに沖縄に存在しなければならない「抑止力」なのか。この間の、「見直し」のなかでまともな議論と検証がおきなかったのは、まことに不幸な現状だが、これが日本国の安全保障に関する思考力の限界なのだろう。みんな平和ボケして、その平和ボケ(それ自体は私は悪いことだとは思わない)が米国に追随していることによって許されると信じているのだろう。平和ボケしていないつもりの沖縄のリアリストでも、現状の日米安保の中でのわけのわからない「沖縄」の位置を前提として変革を口にする。そんなことは稲嶺恵一県知事と岸本建男名護市長が1999年から行ってきている。その結果が今日である。羊たちは何度も同じ過ちを繰り返すしかないのか。

政府は、もうじき、「県内移設」で最終的なプラン、方向性を決定するだろう。

このような政府に対して、マジョリティである日本国民が違う政策を講じるように差し向ける決定的な働きかけをするなどということも、私は期待していない。

高校無償化で、朝鮮学校を排除することを支持する人々が多いという現状を考えても、この国家および国民マジョリティは、とても大きな問題を抱えている。このような国家および国民マジョリティが、沖縄を同じ同胞として差別などしないということをにわかに信じられない。現に差別は連綿と続き、やがて国家により新たなる沖縄の処分が示される。

なんで沖縄になんか生まれたんだろう。いろいろ惑いもしたが、現在は50歳にしてとてもうれしい。私たちは在日のかたがたと違い国籍も何もかも日本国民と同一のごとく扱われ、そして同時に扱われていない。

民主主義、すなわちデモクラシーは、この国ではまだまだ米国様から施された移入品でしかない。そのことを沖縄にいて、如実に思わされる今日このごろ。

私は怒ってはいない。そして決してあきらめない。「そんなに日本国の主権に従うのがいやなら沖縄は独立したら」という、主権は国家ではなく国民にあるのだという原理原則を忘れた人々に行為と存在でわからせてあげたい。主権などという概念が実体を欠いた仮構されたものだとしても。

そして、国民どころかこの国(地域)で生きるすべての民に主権があるのだというラジカルデモクラシーの地平へ向けての思考と行為を忘れないでいたい。

生活の糧を得るために汲々とするひとりの人間として、自らの無力さを憐れむのではなく、無力であるゆえの自由さを大切に生きて可能なだけ世界に働きかけていきたい。

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こんなとこで終えて、酒に酔い、今日は休みます。明日は、気の重い土曜講座だ。あぁ