宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

六諭衍義―1997/2010【追記あり】

Teijyunsoku080819  1997年12月24日は遠くなりにけり。しかして我々はすべてを忘却の闇に捨て置きたるにあらず。過去は死なず、現在を根源から問うべく現在に息づいている。

 我々の苦悩は、困窮は、諍いは、あの日にはじまった。

 市民投票の結果を踏みにじり、当時の比嘉鉄也市長が首相官邸で基地受入れ表明と市長辞職の意向を伝えた。あの日。

【追記】21:30

 だれにわかってもらえなくてもいい…などと思いつつ、これは比嘉鉄也氏にささげるオマージュのつもりで書き出した小さな思考。儒教的精神の教科書である六諭衍義は、琉球王朝時代に、王府が名護地域によこした統治者・名護親方が大陸から持ち込み紹介したもの。それが大和にも伝わり教科書となったらしい。下記の六つの文の冒頭にあるのは、六諭衍義の言葉。それぞれの漢語の意味は、興味のある方はネットででも調べてください。鉄也さんは今回で休まれたほうがいい。ほんとうにお疲れ様でした。

【追記】ここまで

[E:pencil]

孝順父母 私の母親はこの13年のあいだにすっかり呆けてしまった。長兄夫婦がよく面倒をみてくれている。母がまだ元気だった1997年3月に、「おっかあ、名護に基地つくる話があるんだが、どう思う」と問うた。小さな商売で苦労して私たちを育てた母は、笑いながら「なにをいうかねこの子は」と応じた。「康博、基地だけは反対しなさいよ。戦争は二度とあってはならない」と教えてくれた。

尊敬長上 1993年に名護に帰って来た私は岸本建男氏に懇意にしていただいて、名護やんばるにおける仕事を成してきた。市民投票に参画することで、その仕事をすべて失ってしまったが後悔はしていない。基地問題で全身全霊で戦ったが建男氏への尊敬と信頼の念は失っていない。建男氏が比嘉鉄也氏を市長として信頼し尊敬していたことを知っている。しかし、市長を辞してなお市政に関与してくることを好ましく思っていなかったことも。

和睦郷里 私の願いはただひとつである。“なごんちゅ”の政策意思決定である市民投票の結果に、市役所の意思決定を従わせたい。市長や市会議員がどのように高邁なお話をしようとも、「大切なことは自分たちで決める」とした主権者の決定を覆せない。郷里は人である。その人々の意思決定をゆがめ争わせてはならない。比嘉鉄也氏は1997年12月24日に郷里の和睦を破壊した。

教訓子弟 名護は、かつては「名護や山原の、いちはてがやゆら」と歌にも詠まれた辺境の地である。名護で生まれ育った私の姪っ子たちをみてると、ほんとうに名護という居心地のいい街が好きで「那覇に出たら死ぬ~」とふざけてみせる。生まれたところを愛する子弟たちに、郷里の大先輩が「やんばるは哀れして」と恨み言を教え、他所にたかる術を教える姿は哀れである。やめてほしい。

各安生理 名護市長選挙に、他シマの人がやってきて云々と批判する“なごんちゅ”の気持ちはわかる。そのことに対する文句は比嘉鉄也氏に言うべきである。なごんちゅの投票により決まったことを、比嘉鉄也氏が覆したことによって13年に及ぶ混乱が続いているのだから。1997年の市民投票で、名護市における基地建設問題は終わってるはずなのに、それを今日までつなげたのは比嘉鉄也氏である。

毋作非為 選挙において自らの信念である名護やんばるの振興を語るのは良い。基地問題について「白紙委任」してくれと語っても良い。老若男女の有権者は自らの信じるところを投票してくれるだろう。しかし人々の投票を抑圧してはいけない。不在者投票が異常なまでに伸び続けているという。投票の「相互監視」という話まで聞こえてくる。悪いことはしてはいけない。そんなことで権力を得た権力者は権威も信頼も得られない。

[E:end]

市長選挙の動向についていろいろ情報は入ってくるが、激戦であるとしかいえない。比嘉鉄也さんの焦燥感を感じる。あらゆることをやるだろう。ススムさんの陣営が死に物狂いで激戦を抜け切り制すことを願う。