宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

誘致派の誕生(3―1)

 1972年、沖縄の施政権は米国から日本国へ返還された。沖縄の各自治体は地方自治法の枠内に入り、それぞれ「総合計画」づくりに着手する。1970年に一町四村が合併して市制施行したばかりの名護市も同様である。

  1973年6月に市議会の議決を経て確定した「名護市総合計画・基本構想」は、「逆格差論」と呼ばれ注目を浴びた。

  沖縄振興開発計画で「格差是正」が叫ばれ、沖縄が官民あげて開発へと突き進む中にあって、名護市は本土と沖縄(都市と田舎)の「格差は逆である」というテーゼを掲げ、豊かな自然や地場産業を守り発展させていくまちづくりの青図を描いた。現在なら「内発的発展」というもっともらしい名前をいただいている地域づくりの手法・概念・思想だが、1970年代初頭としてはかなり斬新で画期的な「地域主義」の宣言であった。

 名護市がそのような総合計画を持つに至った背景は、本土復帰に伴う沖縄本島北部の開発ラッシュによる弊害への危機感があった。当時は、本土復帰記念事業として行なわれる「海洋博」(1975年7月―1976年1月)を当て込んだ土地の買い漁りなどが横行し、社会問題として顕現化していた。名護市総合計画は、海洋博に伴うそのような混乱から市域の土地や人々の暮らしを守ることに功を奏した。

  「総合計画・基本構想」の持つ理念を、市役所職員としての自らの仕事のなかで血肉化していこうと、若き職員たちのあいだで「自治研」も立ち上げられた。そのリーダーが故人となった岸本建男前市長である。

 当時の名護市の状況を「自治」の観点から研究し記録に残しておくことは重要である。後年は岸本氏も「まちづくりは役所が行なう」「振興策なきまちづくりはありえない」などと発言しているが、名護市の創世記における岸本氏をリーダーとした職員たちの動向は、自治体のありかたとして今でも大切な方向を示し続けている。

Image_sityousya  1970年に誕生したばかりの名護市には、70年代から80年代にかけては公共施設の建設など旺盛な公共事業の需要があった。その観点からは、名護市は発足当時から公共事業に頼る「土建市政」であったという側面もあるかもしれない。しかし、名護市庁舎の建築に代表される公共施設のなかに埋め込まれた「自治」の精神は、単なる土建市政では成しえないものであった。1977年に始まった名護市史づくりも、字史づくりなど身近なコミュニティの歴史を記録する手法および精神に特筆すべきものがあり、名護市のみならず沖縄の「自治」の貴重な財産を成してきた。

 名護市がそのようにまちづくりを進めているあいだ、沖縄をめぐる状況はドラスティックに変化していく。農業など第一次産業は国策の影響を諸に被り衰退を歯止めできず、また海洋博ショックが遠ざかる中で、沖縄観光へ大手航空会社が集中的に力を注ぎ、恩納村一体にリゾート施設が建設され盛況を見せ始めていた。

 「総合計画・基本構想」でも、観光産業の振興への目配せはされたが、それはあくまでも「自力観光」であり、リゾートや興隆する観光産業へは批判的であった。

 新生・名護市の公共施設整備が一段落した80年代初頭には、沖縄振興開発計画に批判的で観光ブームに乗り遅れた感のある名護市政への不満が胎動してくる。

 1986年の市長選挙で、長き革新市政が終わり、比嘉鉄也市長が誕生し保守市政が始まる。
 1988年には、第二次総合計画・基本構想が策定される。「逆格差論」は放棄され、大型公共事業と大規模リゾート構想が志向される市政になる。それらはことごとく失敗し、10年後には新基地建設を受入れる、全国唯一の自治体になる。

(つづく)

[E:soon]

三回にわけて書けるだろうと書き始めたが、風邪気味で調子悪すぎ。正月休みのあいだに書いてアップするのは断念。次回で現在までの状況を概括し、最後に現在の市長選挙の状況を整理し、予定候補者である稲嶺進氏の存在を名護市の歴史の中に位置づけたい。