宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「沖縄戦」について(中)

Okinawa_initial_attack (前回からの続き)
1944年10月20日:米軍がフィリピン・レイテ島に上陸。日本軍はフィリピン決戦のために台湾駐留部隊を動員し、その穴埋めに沖縄の第32軍の中核である第9師団を転出。沖縄の兵力の三分の一が失われ、第32軍は基本方針を沖縄で米軍を「くいとめる」から「もちこたえる」に変更。

1945年1月12日:軍の命令に従わない県知事を異動し、県政は日常業務を停止し「戦時行政」に切り替え、軍の要請通りに県民を誘導。

同年1月23日:第9師団の穴埋めの姫路の第84師団派遣が中止される。第32軍は戦力を補うために沖縄県民の「根こそぎ動員」を実施。沖縄戦における日本軍の全兵力の三分の一は沖縄現地で召集された沖縄県民であった。

17歳から45歳の男子約25,000人は急ごしらえの防衛隊として組織され戦線へ送られた。
中学生も男子生徒は「鉄血勤皇隊」、女子生徒は「衛生勤務員」(ひめゆり学徒隊等)として組織され戦線へ。
沖縄県全体で男子生徒は1,780人が動員890人が戦死、女子生徒は505人動員され189人が戦死した。
沖縄県が軍部と覚書を交わし、男子生徒の名簿を提出していたことが2006年に公開された米公文書でわかった。)

鉄血勤皇隊の死者数

学校名    動員数    戦死数    死亡率
沖縄師範学校    386人    224人    58.0%
県立第一中学校    371人    210人    56.0%
県立第二中学校    144人    127人    88.2%
県立第三中学校    363人    37人    10.2%
県立工業学校    94人    85人    90.4%
県立農林学校    173人    41人     23.7%
県立水産学校    49人    23人    46.9%
那覇市立商業学校    99人    72人    72.7%
開南中学校    81人    70人    86.4%
県立八重山中学校    20人    1人     5.0%
合計    1780人    890人    50.0%

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Battle of Okinawa 1

1945年3月23日夜明け:1,300隻の米軍艦隊が沖縄本島西南に現る。以来、艦載機による空襲、艦砲射撃。

同年3月26日:慶良間列島の座間味・阿嘉島に米軍上陸。慶良間列島には日本軍は陸軍の特攻艇部隊のみでその日のうちに制圧。追い詰められた住民の「強制集団死」が起こる。

同年同日:天一号航空作戦」発動。九州や台湾の航空基地から特攻隊発進。米艦船に特攻。

同年4月1日早朝:読谷村から北谷町の海岸に米軍上陸。日本軍は戦略持久作戦を取り反撃せず、「まるでピクニック気分」で米兵6万人が上陸。

同年4月4日:米軍は本島東海岸に達し、沖縄を南北に分断。日本軍の持久作戦のための主陣地がある宜野湾に迫る。

同年4月6日:「菊水作戦」(神風特攻隊)発動。以来、6月22日の菊水十号まで発動。戦艦大和も菊水作戦の一環として沖縄に出撃。

同年4月8日:米軍戦史に「ありったけの地獄をひとつにまとめた戦闘」と形容されている「嘉数の戦闘」始まる。以来、24日まで圧倒的物量の米軍に対して一進一退の攻防戦が展開。

同年5月4日:米軍が首里に迫るなか、第32軍は「死中に活を求め」浦添・西原戦線の米軍に総攻撃。失敗し翌5日には中止命令が出された。この時点で、第32軍は戦力激減で戦闘不能な状況となった。

同年5月12日:「シュガーローフの戦い」始まる。丘陵の頂上争奪が4回も変わる一進一退の攻防。18日に米軍が占領。米軍に2,662人の戦死者、1,289人の戦闘による精神疲労者。

同年5月22日:第32軍は司令部のある首里を放棄し南部撤退を決定。牛島満司令官は「なお残存する兵力と足腰の立つ島民をもって、最後の一人まで」南の果てまで戦い続けると表明し、戦略持久作戦を徹底した。

Battle of Okinawa 2

同年6月4日:米軍は小禄海軍飛行場(現那覇空港)に海側から上陸、那覇を制圧した部隊と合流し進撃。小禄の1万人の日本軍の兵力は、3分の2が沖縄県民を召集した急ごしらえの防衛隊や義勇隊であった。太田実司令官は6日(13日ごろという資料もある)、海軍次官宛に「県民斯くたたかえり、後世特別のご高配を」の電文を打ち自決。

南進してくる米軍に追い詰められるように、日本軍がじりじりと南部に向かう。住民も戦火を逃れながら南部に追い詰められていく。
6月、喜屋武半島には避難住民10万人と大方が敗走兵である日本兵3万人が混在。第32軍は摩文仁の洞穴に司令部を移し最後の抵抗。鉄の暴風のように艦砲爆撃。日本軍による住民の避難壕追い出しや食料強奪。泣く赤子の殺害、スパイ嫌疑による住民処刑。悲劇が頻繁に起こった。

同年6月22日:米軍は沖縄戦の集結を宣言。同日未明(23日の説もある)、摩文仁の壕で牛島満司令官らが自決。牛島司令官は自決に先立って「爾今(じこん)各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後迄敢闘し悠久の大義に生くべし」と最終命令を発した。以後、組織的な戦闘はなくなったが米軍の徹底した掃討戦と局地的な戦闘が続いた。

北部戦線では敗残兵が横行し、住民に対する横暴・残虐な行為が頻繁に起こっている。4月16日に始まる伊江島の戦闘もわずか一週間で日本兵約3,000人、住民約1,500人が戦死する凄まじさ。宮古島は米軍の上陸はなかったがイギリス艦隊による艦砲爆撃や空爆があった。食糧難による栄養失調や戦争マラリアなどでの犠牲多数。宮古島の日本兵はほぼ無傷のまま生き残った。八重山諸島も艦砲爆撃や空爆。日本軍は米軍上陸必至と判断し住民を強制疎開させ、疎開先で戦争マラリアによる死者が多数出た。

同年9月7日:現在の嘉手納基地の米軍司令部前広場で降伏調印式が行なわれ、以後、日本軍の武装解除が行なわれ沖縄戦は事実上終結した。


(備考)

本土決戦を引き伸ばす、持久作戦であったこと。
牛島司令官の自決前の命令に注目すべき。

投降を決して許さずスパイ容疑で殺害までする友軍であったこと。
→避難壕での悲劇のみならず、北部戦線での敗残兵たちの横行を。
 ※各地域誌などに貴重な体験談が刻まれているが、まとまってはいない。

中学生の子どもも含めて「根こそぎ動員」であったこと。
→軍部によるひめゆり鉄血勤皇隊の組織化に県政が協力(名簿提出)した。
 ※当時の県知事は中央政府による任命制である。

「県民斯くたたかえり」を美談の如くするなかれ。
→「根こそぎ動員」で訓練も受けず戦線で戦わされ死んだ県民を思うべし。

【参照】

沖縄戦

鉄血勤皇隊

嘉数の戦い

シュガーローフの戦い

菊水作戦

........以上はwikipedia

沖縄県平和資料館

(書籍等)

■岩波DVDブック Peace Archives
オキナワ
沖縄戦と米軍基地から平和を考える
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-130155-5

■ビジュアルブック 語り伝える沖縄第3巻
島ぐるみの悲劇の戦争
新日本出版社
http://www.shinnihon-net.co.jp/catalog/product_info.php?products_id=1723

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