宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

岩国滑走路沖合展開は艦載機移駐のためだったのか

09_2私事で恐縮だが、仕事の最後の追い込みに悶々としながら、沖縄のことも岩国のことも気になってしょうがない。

今日は、岩国について、ひとつ気になって調べていたことをノートしておく。できれば、新しい市長さんも、市民のみなさまにも、賛成・反対の判断の前に、事実の整理として承知していただければと願っている…まっ、こんなマイナーブログをチェックしてくれている岩国関係者はいないか:)

岩国飛行場旧日本海軍の飛行場であった。

  • 1939年~1945年 旧海軍の航空基地として岩国飛行隊が運用
    終戦後、駐留軍が接収し英米空軍が使用
  • 1952年4月~ 安保条約に基づき米空軍⇒米海軍が管理運用
  • 1954年~現在まで海上自衛隊が共用
  • 1955年~現在まで米海兵隊が管理運用

岩国市民が、長い間、この基地と接して暮らしていたこと。そしてそれが良し悪しは別として、コミュニティの中に構造的に入り込んでいることは想像できる。
滑走路の沖合移設の流れをおさらいしてみる。

  • 1968年 九大に戦闘機墜落
  • 1971年 政府に地元が沖合移設を要望
  • 1982年 防衛施設中央審議会が施設庁に東側(沖合)1000m移設を答申
  • 1986年 環境影響基礎調査着手
  • 1993年 環境影響評価準備書 
    ※同年には、MCAS Iwakuniが米本国の音響調査専門コンサルに委託し、Air Installations Compatible Use Zones(「AICUZ」)に基づく測定とコンター図を作成している。
  • 1995年 環境影響評価書
  • 1996年 仮桟橋の製作着手
  • 1997年 護岸工事着手
  • 2008年 完成予定(総事業費約2,400億円)

もともとは、九大に戦闘機が墜落したことによる、同機種が岩国基地に配備されていることへの岩国の皆さんの事故への不安から沖合移設要望が出されている。
実際に、岩国にいって眺めてみれば一目瞭然だが、滑走路の北側進入表面下には石油コンビナート群があり、離陸後1マイル(1.852キロメートル)以内に航空機は旋回しなければならず、ただでさえ危険である。

1971年から地元の熱心な要望が始まっているのに、11年後の1982年に防衛施設庁の防衛施設中央審議会がやっとその旨答申を出して、事業化がスタートする。
岩国市民及びそのために10年間も尽力していた地元の方々は喜んだことだろう。

それからさらに10年近くをかけて、1993年に防衛施設庁は環境影響評価準備書を公表する。
しかし、これは日米両政府が公式に明らかにしていることではないが、米軍は同年にAICUZを基にしたコンター図をコンサルに調査作成させている。

私は、このことが気がかりで、なんなんだろうとずっと考えて続けている。(AICUZについては、ここでの説明は省きます。なごなぐの過去エントリーをご参照ください)

おそらく米軍にも、日本政府にも、公にはされていない何か意図がある。

そこで厚木のNLP艦載機空母への着艦訓練の夜間バージョン)のことについて時系列を追ってみた。

  • 1972年 米軍、横須賀海軍施設に空母を前方展開させると発表
  • 1973年10月 空母ミッドウェイが横須賀入港 同空母出航の際は三沢と岩国でNLP実施(2001年以降は実施されていない)
  • 1982年~ 米軍は三沢(610k)岩国(660k)と遠隔のために、即応体制の維持、時間、経費の制約で訓練が不十分として、厚木と横田(2001年以降は実施されていない)NLP実施
  • 1991年~ 暫定的に硫黄島でNLP実施されるも、天候等の理由で他の飛行場(厚木・横田・三沢・岩国)での実施多し。

※米軍は、厚木が合同委員会による騒音規制措置と周辺市街地の灯火により十分訓練ができないとして厚木から180k以内のNLP施設を要求し続けている。

1972年というのは、沖縄の施政権が日本国政府に返還された年だが、米軍はその年に空母を横須賀へ展開すると公表している。沖縄の施政権返還で、日米安全保障条約体制のあり方がまた一つ深く進展したことの表れかもしれない。翌73年に空母が入港し、出航の際のNLPは、それからしばらくは三沢と岩国である。

米軍は、あまりにも厚木から遠いので、カネも時間もかかるしと不平不満を募らせ、82年からは厚木でNLPを実施する。

1982年は、厚木での恒常的なNLPが始まった年であり、岩国での滑走路沖合移設が政府方針として示された年である。

この二つの動向は、たまたま偶然なのか。厚木飛行場周辺が都市化して、NLPなど続けられるわけがないことは政府も十分わかっていただろうし、米軍側も承知していたことではないのか。であるから、空母が前方展開した当初は、厚木でのNLP実施を避けたのではないか。だとしたら1982年の二つ動向は、単なる偶然の一致ではないのではないか。1993年に米軍がAICUZに基づく調査を入れたのは、大量の戦闘機の運用を前提にしてのものではなかったのか。

なごなぐ雑記でも怒って文句を書いた(岩国市長選挙について8)が、官房長官「何のために沖合移設を長い間かけてやって」という発言は、政府の非公式な前提の漏洩ではなかったのか。

Gogle そう考えると、滑走路沖合移設の完成する今年度と、厚木からの艦載機移駐を決定した米軍再編の合意もあまりにもタイミングがよすぎる。

私は「陰謀」を指摘しようという気はさらさらない。それほど長期的スパンで考慮しながら物事を進めていることは想定内ではある。そして必要以上に理由や内容を明らかにしないだろうことも。

私の現在の調査能力では、これ以上知る良しはないが、この問題についての経緯等を深く掘り下げることで、日米安全保障条約による様々な計画・決定が、地方公共団体の意思などお構いましに進められているということを検証できるのじゃないだろうか。どこかでジャーナリストが奮起しているかもしれない。

岩国は、これからどうなっていくのだろう。私は、おそらく井原氏も市庁舎建設を防衛予算にあれほど頼るような自治体運営はおかしいとお気づきになっていたと思う。そのうえで、どうにかしていこうとほんとうに覚悟を決めて市長選に臨んでいらっしゃっただろうと思う。どのように自治体としてプライドを持って、行財政を建て直し市民の暮らしと町を守っていくか、厳しいが当選なされて市民の協力を得られたらほんとうにやりがいのある仕事だったろうと思う。そんなやりがいのために飢えさせられたらたまったものじゃないという市民の声も聴こえてきそうだが、このまま基地を維持するがための一時的な金に頼りきっては、将来の市民は塗炭の苦しみを味わうことになる。私にはツケを先送りしている感がしてならない。

岩国の選挙結果をみて、私はあれほど大勢の人が井原氏を支持したことに気を強くし市民のみなさまに敬意を覚えた。
そうしてそれをわずかに(と書くと福田氏支持者が怒るかもしれないが、僅差であったことは事実だ、こらえてください)上回る人々が福田氏を支持したことで、我々が乗り越えなければいけない問題をあらためて噛み締めることになった。

米軍は、岩国でNLPを実施したい旨を再編協議で日本側に伝えていることは報道されている。日本政府がどのように考えているか、まだ私には確たる情報はないが、表層で見えていることだけでいうと、NLP施設がそんなに簡単に近くにできるとは思えない現状では、艦載機移転完了後になし崩しでNLPが実施されるとしか想定できない。

出口調査の結果等では、過半数を大きく上回る人々が艦載機の移転には反対している。岩国市民のみなさまのこれからの道のりは決して楽ではないが、どうかあきらめずにがんばって地方で生きる人間の心意気を持ち続け、地域の生活空間を守り抜いてほしい。

私も沖縄で生きて、あきらめずに前を向いて歩く。権力は何十年もかけて私たちに圧し掛かって、あきらめるのを待っている。誤った公共政策を実行させてはならない。問題はみえている。絶望などしていられない。

【追記】17:34

艦載機移駐に関する岩国での施設整備(民航ターミナル含む)についてのマスタープランを米軍側がすでに作成している。昨年(2007)5月には概要が防衛施設庁により関係地方公共団体に説明。現在は日米間で細部を調整中である。

米軍の家族住宅については、昨年(2007)1月30日に山口県より防衛施設庁愛宕山開発用地の利用意向の確認がなされる。防衛施設庁からは、用地取得可能なら有力候補地として米側と調整しつつ検討したい旨回答されている。

-

【参考】
防衛施設庁史