みやぎブログ

演劇・戯れ・政治

11万6千人の県民大会について断章(2)

沖縄の高校生諸君が、空前絶後の県民大会の模様をブログで伝えている。
写真甲子園とやらで連続優勝している高校生たちだけあって写真もいい。ぜひみてほしい。

ハイサイブギ放課後日記
沖縄県立真和志高校インターメディア部

というわけで、本日も家に篭り続けて、原稿書いたり逃避したりしている。
家人が長旅に出ており、いよいよ誰とも言葉を交わすこともなく、パソコンや本だけみてる。私の現在の状況は“見做し自閉症”である。

昨日に引き続き、県民大会に触発された断片を書き連ねてみる。

おとといのエントリーへのコメントで、ゴンベイさんから教えてもらった知花くららのレポート。もう“自End”にトラックバックされた複数のブログで紹介されているが、必見。ごちゃごちゃ書きません。とにかくみてほしい。くららさんのおじいちゃん、ありがとうございました。

くららリポート「沖縄の集団自決」 1
くららリポート「沖縄の集団自決」 2

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95年の県民大会を上回り、主催者の予想を遥かに上回った。そのことの意味。人々は何かを感じ取っている。アベシンゾーが進めた憲法改正への動き、戦後レジームからの脱却という国家レジーム変更のキナ臭さ。人々が集まらなければならないと感じた危機感。

防衛庁が省に昇格し、自衛隊が日米軍事再編で米軍と海外へ行く。今後の展開のために払拭しておかなければならない国民の「軍隊アレルギー」。歴史教科書の書き換えは、それなりの必要性があって行なわれている。すでに実態はそうではなくなっているのだろうが、早晩、自衛隊は名実共に自衛隊ではなくなる。《自衛》隊ではなく、《軍》隊である。

「軍命の証拠は?」などと気楽に言ってのける輩は、自分たちが何を問い、だれの益に貢献しているのか知っているのだろうか。殺される側ではなく、殺す側に自分は確実にいるつもりでいるのだろうか。

戦前戦中の教育はカルト教育であり、そのカルト性を復権しようという方々がいる。それでは、あまりにも死んでいった殺されていった人たちに失礼ではないか。沖縄の今回の県民大会を英霊を侮辱する行為だと書いている輩もいたが、そっくりそのまま言葉は返る。守るべきものがある。国家ではない、そこで生きる人々であり、生きれる環境ではないか。軍隊が守るのは国家であり国民ではない。地獄の沖縄戦からそのことを学び取らないで何を学び取るというのか。

沖縄県民の危機感が「炭鉱のカナリアの大合唱」として響いている。しかし、この合唱のアンサンブルの中には、新しい基地を造る側もいれば、米軍基地の存在で多額の不労所得を得ている階級もいる。それでもなお、しかし、この炭鉱のカナリアの大合唱から、日本国民のマジョリティが危機感を共有し得ないなら、われわれの未来は暗すぎる。

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政府が中立性を装いつつ、意図的に教科書の中身を塗り替えていくためにとっている仕組みを変えさせなければならない。今年4月の国会での論戦では、民主党川内博史衆院議員ががんばっていた。全野党がこの問題に集中する値打ちはある。政治的イデオロギーに左右されない歴史認識を確立すべきだ。

福田氏はアベ氏より、鳩に見えるかもしれないが、福田氏もその一員である新自由主義的カイカク陣営は、この国をとんでもないところに誘導している。戦争は、国富消尽以外の何物でもない。兵器製造販売で経済を回転させている国家のお客さんになることを求められ、その方向にひた走っている。それが日本国の現在ではないだろうか。

自民党を終わらせよう。この国の行政の座から引き摺り下ろそう。その思いをますます強くしたのが、沖縄の県民大会を受けての感想である。

普通は人を殺せば犯罪だが、戦争では英雄である。そんな言葉に違和感を感じる。英雄と規定するのは、そうでもしなければ戦争でも人は人を簡単には殺せないからではないか。英雄などというのはウソだった。アメリカの議員の子どもは従軍しないらしい。英雄になりたくないはずはないのに。

「英雄がいない国は不幸だ」「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」
  ベルトルト・ブレヒトガリレイの生涯】)


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“見做し自閉症”の私が、真夜中に、しこしこ描いた落書きを置いておきます。
差し上げますので、どんな使い方をするのも自由です。大中小あります。
暇だなぁ…って思ったでしょう、いま(笑)。

Jiend_sunkids Jiend_sunkids_midi


Jiend_sunkids_mini


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