宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

これで俺たちは皆糞ったれだ

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しつこいようだが、私には納得いかない。

久間衆院議員は、発言内容について「誤解」されたとするだけで、みずからの発言の内容を吟味し、自己批判も何もなく、ただただ選挙への影響を懸念して辞めていった。

それに対して

安倍総理も、発言の「誤解」を言うだけで、まともに発言内容についての見解も所見も述べず、選挙への影響のみを懸念して辞意を受け入れた。

ほんとうになんなんだ、この事態は。

戦後レジームからの脱却」というこざかしいコトバの本質が大きく露呈してしまっている。

マンハッタン計画におけるトリニティ実験での核爆発後に、ある科学者が言った「Now we are all sons of bitches(これで俺たちは皆糞ったれだ)」という言葉を、私は反芻する。

マンハッタン計画は、ドイツを逃れた亡命ユダヤ人の科学者たちが、ドイツが原爆を開発・入手することに対するおそれから、アメリカの大統領に1939年に手紙で進言したことに端を発している。

1942年に秘密裏に研究着手し、1945年に完成。7月15日にトリニティ実験を行なった後に8月6日に広島、9日に長崎に投下された。

45年3月には、研究者の一部はドイツが原爆開発をしていないことを知り、対日戦での無思慮な原爆使用に反対する活動も始めた。明らかに広島・長崎(当初は目標投下地点は小倉)への原爆投下は、新型爆弾の威力等を知るための実験であり大戦後のイニシアチブをとるためのアメリカの行為であった。

ドイツの劇作家・ブレヒトは、核兵器の使用を知り、自身の作品である「ガリレイの生涯」(1939年に亡命先のデンマークで書き上げていた)の中で、晩年のガリレイが科学的理性を信じる若き科学者と対話する(自己批判する)シーンを書き換えた。

「科学の唯一の目的は、人間の生存条件の辛さを軽くすることにある」

「もし、科学者が我欲の強い権力者に脅迫されて臆病になり、知識のための知識を積み上げることだけで満足するようになったら科学は片輪にされる」

「君たちが何か新しい成果を獲得したと言ってあげる喚起の叫びは全世界の人々がひとしなみにあげる恐怖の叫びによって答えられることにもなりかねない」

「英雄のいない国は不幸だ」
「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なのだ」

核兵器は、人類の科学のひとつの到達点です。このような兵器を持ってしまったことの不幸と罪を、人類は背負ってしまっている。「Now we are all sons of bitches(これで俺たちは皆糞ったれだ)」の、「we are all(俺たちは皆)」はそこにいた科学者のみならず、全人類が含まれるほどの地点ではないでしょうか。

原爆による被害者性を強調する事は、大日本帝国の加害者性を薄めることに利用されるという意見もあるようです。確かにそのように強調し利用しようとする方々もいるでしょう。

しかし、核兵器の存在及びその使用は、戦争の被害/加害で語れるレベルの問題でしょうか。原爆被害の有無で、戦争犯罪の加害性が差し引かれる問題でないでしょうし、敗戦国側に戦争犯罪があったからといって、戦勝国側の戦争犯罪が免罪される程度レベルの問題ではないでしょう。戦争大好きなアメリカのプロパガンダに乗せられ、「戦争」一般に還元すべき話しではない。

いずれにしても、「国家」が行なった人類(のみならず生きとし生けるものすべて)に対する無差別大量殺戮という残忍な犯罪であることは動かしがたい事実です。そのような「国家」の行為(暴走)を止めるために、立憲主義があり、憲法があるのです。

久間衆院議員が大臣として行なった、原爆投下「しょうがない」発言は、そのような「国家」の大量無差別殺戮という行為を是認していることに、大いに問題があります。被爆者の方々を軽んじている踏みにじっているという問題は、過去と現在だけではなく未来に対する背信でもあるのです。国権の発動としての戦争を禁じている「現憲法」下で国防に関わる大臣がする発言としては、はなはだ不適切で憲法違反の疑いすら濃厚です。

戦後レジームからの脱却」とは、久間大臣のような発言が、堂々とまかり通っていく世界です。原爆被害が国民大多数のアレルゲンであるうちはまだまだ「戦後レジーム」の範疇で、それが「しょうがない」と通用するようになってはじめて「戦後レジーム」から脱却できるのでしょう。

まだ「戦後レジーム」から脱却できていない道途中だから、今回は問題視されましたが、脱却が成就した日にはひとつの重要な見識として認知されているかもしれません。

戦後レジームからの脱却」の途上であるから小池百合子氏は、記者会見で「言葉は選びたい」としているのです。であるから久間大臣の発言内容には立ち入らず、原爆投下は「人類への挑戦」と現段階で最大多数に受け入れられるよう言いつくろうのです。

安倍総理が、久間大臣の発言に対して、内容的にはなんの釈明も説明責任も果たさないのは、核武装論者ですらある安倍総理としては、何が問題なのかわからないし、不用意に釈明すると窮地に陥るのが目に見えているからです。であるから何億円も使って国会会期延長したにも関わらず、野党から審議に首相出席が要求されると堂々と自民・公明は審議拒否するのです。国民はとことん侮られています。

自民党の中川も麻生もみんな同類です。集団的自衛権について「有識者」面して集まり協議ゴッコしている安倍総理のお友達も、みんな同類です。

「糞ったれ」の人類ですが、その現実を前にしてそうではない世界を創ろうとしたのが、日本国憲法なのではないでしょうか。憲法はすべからく押し付け憲法で、国家権力に対して主権者である国民が押し付けているのが憲法です。これを理念などと神棚にあげていると、いつでも久間さんのような政治家は出てくるし、今でも闊歩しています。

「権力に押し付けられた憲法」からの脱却こそが「戦後レジームからの脱却」です。

権力はこの憲法とオサラバしなければ、戦争ができないのです。当然ながらこの「戦争」は、第二次世界大戦で始まった非戦闘員が暮らす都市への戦略爆撃核兵器という無差別大量殺戮兵器を使用する「戦争」です。核兵器をアレルゲンとするような国家は「戦争」に参加できません。せいぜい核の傘のもとで安全を守ってもらうのみです。そのような現状認識で、そのような現状を変えたいというのが、「戦後レジームからの脱却」のリアリズムなのです。
憲法に関する、現実と多少そぐわないところが出てきた、環境権を付け加えるべきだ、などの言い分はすべてがおためごかしで、究極の出口は別のところにあります。久間発言は、はからずもその出口を垣間見せています。

安倍内閣の目指す「戦後レジームからの脱却」が実体を持って浮かび上がってきました。
参院選与野党を逆転させなければ、この国は完全に壊れてしまう。

 

「英雄がいない国は不幸だ」
「違うぞ、英雄を必要とする国が不幸なんだ」

 

私たちひとりひとりの不断の行為が求められ試されている。

 

だんだん自分が考えていることがわかってきた。チラシのうらがきのような思考につきあわせてゴメンナサイ。でも、う~ん、なんかこの稿、まだまだつづきそう…

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今日も、最後まで、読んでくれてありがとうございます。

 

ヤンバルクイナノグチゲラという貴重種が存在する森に基地建設を進める犯罪的行為が進められています。そこは人々が、自然と共にありながら静かに暮らす地域でもあります。殺人的な沖縄の夏の日差しの中で、自らの生存権と平和への願いをかけて精一杯の抵抗をしている人々がいる。高江の状況については、下記ブログをぜひ読んでください。

やんばる東村 高江の現状