宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「強制された死」(4)

琉球新報連載の「強制された死」紹介の最後です。
覚書を書き記しておこうと思ったのですが、機会を改めます。
今日紹介する当時14歳だった武次郎さんの、「教科書を換えさせてはいけない」の言葉をしっかりと受け止めたいと思います。 Kerama_1
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慶留間島
姉の死にうずく心

1945年3月26日の朝8時ごろ。座間味村慶留間の高台にある佐原(サーバル)の監視小屋で、敵の動きを見張っていた青年が、500メートルほど離れた 谷間にあったアカムティの壕(ごう)へ走り、叫んだ。「アメリカーが上陸した。もう駄目だ。佐原の壕ではきれいな着物に着替えてたから、もう死んでいるは ずだ」
壕内はパニックになった。その中に14歳だった仲村渠(のちに中村に改名)武次郎さん、母・ウタさん、姉のキヨ子さんがいた。一人の老婦が怒鳴った。「いったー日本人あらにー。りっかみてきよー(あんたたち日本人じゃないか。来なさい、見に行こう)」。
佐原の壕に入ると、12、3人が上等の着物を着け、並んで横たわっていた。「みんな死んでいる」「生きているのは自分らばっかりよー」と泣き叫ぶ声が上がった。

みんなが「集団自決」にせき立てられた。武次郎さんの家族はすぐ下の壕に入った。母がどこからか2、3メートルの縄を持ってきた。米兵に捕まると強姦(ごうかん)されると聞かされていた19歳の姉は「わんからへーく絞みてくりぃ(私から早く絞めてくれ)。へーく、へーく」と母をせかした。母が姉の首にひもをかけた。
武次郎さんも横たわり、縄の端を使い、首にふた回り巻いて、ぎゅっと両手で引っ張った。精いっぱいの力を込めたつもりだが、息はできる。そのとき右耳の横でバタバタと動いていた姉の足がパタリと動かなくなった。
同じ壕で、別の老人が自らの妻を絞め殺した後、「自分はどうやって死のうか」と歩きながら自らを奮い立たせるように、大声で叫んでいた。自分の母と3歳になる娘の首を絞めた女性は、はっとわれに返り、逃げるように壕を飛び出した。
姉が動かなくなって1、2分後。見覚えのある顔が壕をのぞき、手招きした。武次郎さんの一つ年上の先輩が「みんな下に下りているから出てこい」と言う。外に米兵3人もいた。武次郎さんは捕虜になり、終戦を迎えた。慶留間では住民の半数近い53人が「集団自決」で死んだといわれる。
戦後、母は87歳で亡くなるまで、戦争の話には一切触れなかった。武次郎さんも「『出てこい』と言われるのがあと少し早かったら…。捕虜になるときも(姉さんのひもを)外して出て行けば、もしかしたら助かったかもしれない」と悔やみ続ける。「姉さんはきれいな着物に着替えることもできずに死んだんだ。かわいそうに」。消え入るような声でつぶやいた。何十年たとうとも「あの日」に触れるたび、武次郎さんの心はうずく。
痛みは変わらない一方で歴史教科書が書き換えられようとしている。武次郎さんは「教科書を換えさせてはいけない。戦争がこうだったよという事実は後輩たちにも知らせていかんと駄目だ」。平和な未来のために、つらい現実と向き合い続けている。

20070622<強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>9

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これで新聞連載からの紹介は終わります。

最後まで読んでくれてありがとうございました。

恣意的な教科書検定に関わる者及び歴史捏造主義者たちは、「軍命」の有無を争点に軍の関与を薄めようと躍起ですが、「軍命」が文書で明らかにされなくても、「軍民共生共死」の当時の状況下でつくりだされた地獄に、軍隊や国家の関与はないなどと到底言えるものではありません。
そのようなトンデモない歴史捏造こそ「自虐史観」であり、情けない態度です。

「集団強制死」の地獄を作り出したのは「教育」であり、全体主義の時代の賜物です。
国家の歴史はレトリックに満ち満ちています。新大陸は「発見」され、殺戮は宗教的な「ミッション」になり、国家間の「植民地」争奪は「解放」です。
歴史教科書を書き換えることの危険性に、私たちは大いに敏感であるべきです。

美しい国」などと美意識に関わる言語を、国家像を語る政治的言語として使用することの不見識。笑えない。