宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「強制された死」(3)

琉球新報連載記事紹介の続きです。座間味島の方々の証言です。前回の渡嘉敷と座間味での「集団自決」に対して、軍命はなかったとし軍の関与を消そうというのが、トンデモ史観の主張です。
一緒に沈黙の内に沈めていた声を聴いてください。私は証言者の方々に感謝します。
紹介は次回慶留間島で若干の覚書を添えて終了します。
Kerama_1
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座間味島
迫る米軍
山中で地獄絵

 「きれいな服を着せようね」。母・澄さんは当時六歳だった上里(旧姓・上原)和子さん(68)に優しく語り掛け、袖の長い晴れ着を取り出した。
1945年3月26日。座間味島に米軍が上陸したその日、和子さんは母、祖母、妹とまだ赤ん坊の弟と座間味国民学校の裏にあった「校長の壕」に逃げ込んだ。
座間味国民学校の教頭の代理をしていた父・和智さんは、軍と行動を共にすることが多かった。
この日、和子さんは晴れ着を着せようとする母の手を振り払って走り回った。仕方なく母は三歳の妹・智子さんを近くに寄せ、先に晴れ着を着せた。
智子さんは潤んだ目で「死んだら黒糖いっぱい食べられるんでしょ。お菓子もある?」。そう言うと素直に袖を通した。

母は再び和子さんに着物を着せようとした。「集団自決」を拒む和子さんは「嫌だ」「死にたくない」と逃げ回る。何度もこの光景が繰り返された。
母は役場の人から手りゅう弾を二つ受け取っていた。有力者から「アメリカーに殺されるよりも、自分たちで死になさい」と教え込まれていた。米軍が迫ってき たこの日、母は子どもたちに晴れ着を着せ「集団自決」に備えようとしていた。祖母は生後6カ月の弟をぎゅっと抱きしめて、言った。「長男を殺してはいけな い」
ほどなく米軍の激しい爆撃で火が迫ってきた。壕から逃げ出すしかなかった。燃える山の中を、ひたすら走った。ぱっくりと首が切れて三人並んで横たわる死体 に足がすくんだ。腹が膨れた日本兵の死体を誤って踏むと、プスプスと音がし、腹から強烈な臭いがもれ、思わず鼻を押さえた。
阿佐の浜へ下る道に差し掛かると、アダンの木で首をつっている人の死体が目の前に現れた。老人が三、四歳の男の子の足を持って、岩に何度も頭を振り下ろしているところも見た。別の老人はくわを子どもの首に刺して殺していた。この世の地獄を目にしたら、死ぬことはできなくなった。体の中には、ただ生への執着心だけが渦巻いていた。
阿佐の裏海岸にあるトゥルルーガマにたどり着いた。昼間は奥で小さくなって、時間が過ぎるのをただ待ち続けた。夜は潮が満ちる中、泳いで向こう岸に渡り、食事を炊いた。そこへ伝達が来て「戦争が終わった」と知らされた。
和子さんが「集団自決」を拒み続けて逃げ出したから、誰一人命を失わなかった。父にも再会できたが、父は酒を飲むたびに「長く生きては申し訳ない」とつぶやいていた。教え子を戦場に送り、自分は天皇陛下のために死ねなかったことを悔いながら、六十三歳で亡くなった。

琉球新報20070619<強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>6より

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座間味島
62年前の誤解
今解ける

座間味島沖縄戦を経験した上里和子さん(68)=那覇市=の家族は壕に火の手が迫ると、「集団自決」を思いとどまり、山の中に飛び出した。母は弟を背負い、妹の手を引く。和子さんは一番後ろをついていく。
爆弾があられのように降ってきた。一つが近くに落ち、和子さんの小さな体は爆風で水ために吹き飛ばされた。水しぶきの間から母を見つめたが母は一度も振り向かなかった。見捨てられたと思いながら、遠ざかっていく母の背中を見続けたことを今も忘れることはできない。
あの時のことを母に何度問い詰めたいと思ったか知れない。だが戦争のことを尋ねるたび、母はいつも口をぐっとつぐんだままだった。
一方、和子さんも戦争と正面から向き合えずにいた。戦後に島を離れたっきり、再び訪れる決心がつかなかったのだ。
和子さんの父と母は1943年春に座間味国民学校に赴任した。和子さんは当時四歳で那覇に住む祖母に預けられたが、44年の十・十空襲後、「どうせ死ぬなら家族一緒がいい」と祖母と二人、サバニで座間味島に渡った。そこで「集団自決」に巻き込まれた。
戦後は北部などで過ごした和子さんは、教職に就いた後、幼いころの記憶を頼りに紙芝居を作り、子どもたちに戦争の悲惨さを伝えてきた。そして生きているうちにもう一度座間味島に行かなければ、と思い続けていたが、気が重くて渡ることができなかった。
だが今年春、高校の教科書から「集団自決」への軍関与が削除されることが決まった。いてもたってもいられなくなった。「事実を教科書に載せてほしい。自分の体験も残していかなければ」。現場を見れば、その記憶を呼び起こすことができるかもしれない。ついに今月五日、和子さんは座間味島に向かう船に乗った。
島の土地を踏みしめるたび「こんなふうに地面に手をついて敬礼したのよ」「ここに首をつっている人がいた」と身ぶり手ぶりで説明する。記憶が鮮やかによみがえり、言葉があふれ出した。当時の足跡をたどるうち、和子さんは島の風景を眺めながら「六十年たっても、ちっとも変わらない」とつぶやいた。62年前、家族が死に直面したあの時のことを思い出すように、和子さんは目を閉じ、静かに手を合わせた。再び開いた目は赤く潤んでいた。
那覇に帰る船の中で、和子さんは「いまだに母への憎しみの気持ちは消えない」と言っていた。その一方で、気持ちを押し殺すように「でも戦争ってそんなもの」と何度もつぶやいていた。
那覇に戻ってから、和子さんは母と再び向き合った。座間味にまで行った娘を前に、母の重い口がようやく開いた。
「自分自身逃げるのに必死で、そんなことがあったなんて知らなかった。…ごめんね」。母が自分を捨てようとしたわけではなかったと初めて知った。和子さんにもようやく「戦後」が訪れた。

琉球新報20070620 <強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>7より

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座間味島
忠誠誓えず
「生」取り戻す
 

1945年3月25日夜。役場職員が「全員忠魂碑前に集まるように」との伝令を各壕を回って住民に伝えた。
「忠魂碑」は戦死者の慰霊碑で、住民たちは毎月八日にここに集まり、国家への忠誠を誓った。ここへの集合は「最後の国家への忠誠を告げていること以外の何ものでもなかった」(座間味村史より)。伝令が引き金となり、集落全体が「集団自決」へと一気になだれ込んでいった。
当時14歳で国民学校高等二年生だった宮平(旧姓・吉村)弘子さん(76)は、忠魂碑に向かう途中、祖母から砂糖をもらった。「ああ、死ぬんだな」と思った。途中で米軍の照明弾がはじけて昼のように明るくなり、あわてて引き返した。
壕に戻ると死ぬために準備していた猛毒の殺そ剤が見当たらず、家族は死ねないまま朝を迎え壕を出た。
12歳だった宮里薫さん(74)の家族は伝令を受けた後、「最後のごちそうだから」と、貴重な缶詰も開けた。祖母に「カメー、カメー」(食べなさい)と勧められても、薫さんののどを通らない。忠魂碑に向かったが、ひどい艦砲射撃に遭い、元の壕に戻って一晩過ごした。翌朝、上陸した米兵を見て「アメリカーに捕まったら痛めつけられて殺される」と逃げ出した。
11歳だった中村(当時・仲村渠)一男さん(73)は家族七人で内川の壕に避難していたが、米軍の艦砲射撃に襲われ、逃げ出した。番所山の八合目付近の谷間に着くと、忠魂碑に向かったが死ねずにさまよった人たちが集まっていた。暗闇の中で不安と恐怖の声だけが飛び交っていた。
44年の十・十空襲の際、大好きだった先輩のむごい死体を見た一男さんは、「絶対に死にたくない」と思い、どさくさに紛れて手りゅう弾の入っていた信玄袋を母から奪い、闇に放り投げた。
生きようとする一男さんの意志を知り、祖母は「嫡子とまじゅん(長男と一緒に行こう)」と言いながら立ち上がった。死に向かって進んでいた家族の心は、祖母の発言で「生」へと引き戻された。
一男さんは戦後、進学と就職で長い間島を離れた。定年後に島に戻っても戦争について触れることはなかったが、今年の春、ついに口を開いた。「軍人が指示したからこそ、母は手りゅう弾を持っていた。歴史を歪曲(わいきょく)しようとする動きが許せないから、自分の知っていることを話したい」。今の世への危機感が一男さんを証言へと突き動かしている。

琉球新報20070621 <強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>8より

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現在は「なごなぐ雑記」はブログランキングは70何位かにいるはずです。(一時はきっこさんのおかげで20何位かまであがりましたけど、急降下しました:)
ブログピープルはなぜか知らないんですけど1位が続いているようです。