宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「強制された死」(2)

「強制された死」の連載記事を紹介します。琉球新報紙面では6.14/15/17の三日分です。2回ほど校正しましたが、誤字脱字等があれば容赦ください。

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渡嘉敷村渡嘉敷
軍が「集まれ」
直後惨劇

渡嘉敷村渡嘉敷の北(にし)山にあるカーシーガーラ上流。谷底の斜面には木々がうっそうと生い茂っている。林の中は薄暗くひんやりとした空気が流れ、周囲は静寂に包まれている。沖縄戦で多くの住民が命を落とした「集団自決」の現場だ。

「ここにはあまり来たくない」。案内してくれた米田光子さん(七八)=同村渡嘉敷=は「集団自決跡地」の石碑が立つ現場に着くと、緊張した表情を浮かべた。
1945年3月27日、米軍は猛烈な爆撃後、渡嘉敷島に上陸した。翌日、事件が起きた。
当時16歳の米田さんと家族は渡嘉敷集落の住民が避難していたウンナガーラの避難小屋にいた。米軍上陸の27日、阿波連集落の住民が移動するのに出会い「軍が一カ所に集まれと言っている」と言われた。島中の住民が日本軍本部近くの北山のカーシーガーラ上流へと移動していた。米田さん家族もその日の夜、激しい雨が降る中で北山を目指した。
米田さんらが到着した時、カーシーガーラ上流にはすでに数百人の住民が集まっていた。しばらくすると、男たちが両手を挙げて「天皇陛下万歳」と叫び始めた。「集団自決」がどこからともなく始まった。 

ひとかたまりになっていた米田さんら家族十三人も後に続いた。家族が遺体になっても離れ離れにならないよう、父が家族の周囲を着物の帯で結ぶ。そして防衛 隊の兄2人は手りゅう弾を爆発させ、父や兄ら五人は即死した。その後、死ねなかった住民がなたや銃剣、棒などでそれぞれ身内を殺し始めた。
人々の叫び声が聞こえる中、命を取り留めた米田さんは、近くで負傷していた母の腕を取った。「お母さん、逃げよう」と声を掛け、別の住民の後に続いた。すると、近くから自分たちに向けて叫ぶ女性の怒声が響いた。
「あんたたち日本人じゃないのか。逃げるのか」
米田さんは、女性を振り切るように谷を上った。結果的に家族で生き延びることができたのは米田さんと母の二人だけだった。
「今でも一人で寝ていると、玉砕のことを思い出す。でもあれを思い出したら頭がおかしくなるから、戦争のことは忘れて、子、孫たちの幸せだけを考えるようにしている」。米田さんは忘れることのできない62年前の出来事をできれば封印したいと思っている。
「あのとき、悲しみよりも、死ぬことができた父がうらやましいと思った。あんな教育だったから。でも孫、ひ孫たちには絶対にあんな思いをさせたくない」と話し、元気に笑うひ孫の写真を見せた。

琉球新報20070614<強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>3より

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渡嘉敷村渡嘉敷
軍いる場所で手りゅう弾 
 

1945年3月28日。渡嘉敷村渡嘉敷の北山(にしやま)には、渡嘉敷集落の住民のほか、山から遠い阿波連集落の住民も集まっていた。当時19歳の大城澄 子さん(80)=北谷町=も親類や阿波連集落の住民らと「集団自決」が起こるカーシーガーラ上流付近でまとまっていた。村長や駐在、日本兵二人がいる場所 で、大城さんは自分の家族と親類が使う手りゅう弾を受け取ったのを覚えている。使い方も習った。その手りゅう弾で「自決」を図った。
「北山に集まれ」と、阿波連の青年から連絡を受け、大城さんは大雨の中、祖父母と二人の弟らと北山へ向かった。手りゅう弾を誰から受け取ったか、「集団自決」がどのように始まったかは覚えていない。だが、木製の細長い箱から、手りゅう弾五つを受け取ったのを覚えている。
住民が集まっているカーシーガーラ上流まで一緒に来た祖父は、到着後間もなく米軍の迫撃砲で死んだ。「集団自決」を遂げようと、大城さんが手りゅう弾の信管を抜き、爆発させようとしたがすべて不発だった。
住民らの「集団自決」が始まっていたが、手りゅう弾を受け取っていなかったのか、不発だったのか、着物の帯で木に首をくくり死を選んだ家族や、銃剣で家族 を刺し殺す男性を見た。大城さんは弟たちに「私たちは弾に当たるか、ひもじくしてしか死ねない。あんたたちを殺せない」と言った。それでも大城さんはそば を通った年配の男性を見ながら「自分で死ねない、私たちを殺してほしい」と訴えた。
その直後、大城さんは頭を棒で殴打され、意識を失った。大城さんは、「自決」現場に来た米軍に連れられて、北山を下りた。後から、二人の弟の一人も頭を殴 られ、けがをしたが生きていることを知った。祖母は行方が分からなかった。北山に移動した阿波連住民の約半数、25人近くが「集団自決」などで亡くなっ た。
阿波連から北山に一緒に移動した、五人の子どもを連れていた大城さんの叔母は、「集団自決」の現場と違う場所で夫、わが子とともに「自決」した。疲労して いるその叔母のそばで叔父が「歩ける子どもがいるから、誰か養ってくれないか」と親類に言い、大城さんの名を挙げ「(澄子が)ここにいてくれたら」と自決 前に語った様子を、大城さんは人づてに聞いた。
「集団自決」について「そのような教育だったから」と話し、「今はそのことを何も考えない。戦争が終わっても家族を支えるので精いっぱいだった」と静かに振り返った。

琉球新報0070615<強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>4より

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渡嘉敷村渡嘉敷
「安全な地」から返事なく

今はなき一枚の写真が、脳裏に焼き付いている。那覇市首里の実家の前で父と母を中心に九人のきょうだいと幼子が並ぶ。本土の学校に行っていた長男が休暇で 沖縄に帰った機会に、渡嘉敷島にいた父が家族全員で写真を撮ることを提案した。1940年より少し前。久しぶりに家族全員がそろい、みんな幸せそうだっ た。
沖縄戦中、首里高等女学校から学徒動員され、何とか生き延びた宮城(旧姓=眞喜屋)幸子さん(79)は終戦翌年の46年、本島―渡嘉敷島間の渡航が可能に なると、那覇から渡嘉敷島行きの船に一人飛び乗った。島では米軍の攻撃で追い詰められた住民が「集団自決」をしたと聞いた。島に住む父と母の安否が気掛か りだった。
渡嘉敷島で待っていたのは悲報だった。島の北(にし)山の「集団自決現場」にいたという知り合いの女性から、父と母が手りゅう弾で「自決」したことを聞か された。女性は幸子さんに母が現場で持っていたという一枚の写真を手渡した。それは戦前に家族全員で撮った写真だった。父、母が「自決」の直前まで幸子さ んをはじめ、わが子のことを心配していたことを聞き、幸子さんは涙が止まらなかった。
幸子さんの父・眞喜屋實意さんは教員だった。母のナヘさんと四人の娘と本島に住んでいたが、渡嘉敷島への赴任で一家で島へ移った。そこで長男が産まれ「慶良間の水で男の子ができた」と村中の人たちに祝ってもらったという。村の人たちから愛され村長も務めた。
戦争が始まったころ、幸子さんら9人のきょうだいは学徒出陣や疎開などで本島や県外におり渡嘉敷島には實意さんとナヘさんがいた。「渡嘉敷は安全だから来なさい」。戦況が緊迫し實意さんは幸子さんらにそうよく言った。
幸子さんは「ずいせん学徒隊」として南風原町にあったナゲーラ野戦病院壕で看護活動し、最後は糸満市摩文仁で捕虜となった。米軍の激しい攻撃の中を生き 抜いた幸子さんだったが、渡嘉敷島で悲惨な出来事が起こっているとは全く思っていなかった。幸子さんはヤンバルの収容所から、生きているとばかり思ってい た父、母あてに近況をつづった便せん三、四枚の手紙を送った。しかし返事はこなかった。
思い出の写真は、受け取ってから間もなく、引き伸ばしを依頼した業者がそのまま本土に行ってしまい、今はない。
幸子さんは昨年初めて渡嘉敷島の「集団自決現場」に立ち入った。木々が生い茂り冷たい空気が流れていた。「自分が子育てをした時、親孝行をしたかったと強く思った」と声を詰まらせる。
沖縄戦で幸子さんは両親と兄一人を失った。「戦争を恨む。戦争さえなければ」と語る。幸子さんは戦後、定年まで教員をしてきた。「こんなことがあったと、後の子たちにはしっかり(教育で)伝えてほしい」と訴えた。

琉球新報20070617 <強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>5