宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

「強制された死」(1)

沖縄はもう夏である。62年前の「強制された死」の現場を生き残り、いまを生きる方々の声を聴こう。WEBには出ていない琉球新報連載記事である。場所と日付は、昨日の図を参照にしてくれるといい。
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糸満市米須カミントウ壕
軍が恐怖植え付け
壕内で「自決」次々と
「死なんどー」父に懇願

「我(わ)んねー死なんどー、死なんどーっ」。壕の中で女児が絶叫した。「集団自決」で次々と爆発した手りゅう弾のさく裂音がとどろき、煙が立ち込める。視界がなくなり、人々の悲鳴、うめき声が響き渡る。死にたくないと泣き叫んだのは当時九歳だった大屋初子さん(七一)=糸満市=だ。祖母や叔母は、周りの人に遅れてはならないと初子さんの父親に「自決」をせかす。泣きじゃくる初子さんを見かねた父は「初子ーぬ言いーっし聞(き)ち、明(あか)がい見(ん)ちから、死じんしむくとぅ、出(ん)じらやー」(初子の言うことを聞いて、光を見てから死んでもいい、出よう)と答え、家族は光を求めて壕の外へ出て、捕虜となった。少女の叫びが生死を分けた。

糸満市米須のカミントウ壕では1945年6月21日の朝、22家族、58人が手りゅう弾を囲んで爆発させるなど「集団自決」で亡くなった。初子さん は、戦争が激しくなるにつれ、本島南部を祖母や母、きょうだいら親族十人とともに逃げ回った。身を潜めていた壕や墓を日本兵に追い払われ、たどり着いたカ ミントウ壕は四カ所目の壕だった。

中は広く米須の人たちであふれ、顔見知りも多かった。入り口に2人、奥に4、5人の日本兵がいた。すでに米軍は間近に迫り、それぞれがいざという時の覚悟 を固めていた。軍によって敵は野蛮な鬼畜米英なので捕まると「女は暴行されたあと殺され、男は戦車でひき殺される」と、住民は繰り返し恐ろしさを植え付け られていた。
初子さんは14、5歳の少年が父親に髪を切ってもらっている姿を「なぜだろう」と見ていたが、後に死に支度だったと気付く。
壕内への米軍からの砲撃があり、入り口の日本兵が自爆。そして家族たちの「集団自決」が始まった。初子さんの祖母や叔母は「この包丁の方が切れる」などと言いながら父親をせかした。初子さんは家族の死を予感し泣き叫んで抵抗したのだ。
「わたしは幼くて、大人たちが恐れていた米軍の怖さも分からなかった」と初子さんは振り返る。幼いために思想に左右されない純真な心による死への拒絶が、家族の命を救った。
高校教科書検定に見られるように、証言などで語られてきた沖縄戦の史実を否定する動きが出てきている。初子さんは「本当はいい思い出を残す方がいいに決まっている。でも、事実は事実ですから」と、静かに語る。
初子さんは数多くの慰霊塔が立ち並ぶ魂魄(こんぱく)の塔前で花を売っている。魂魄の塔のほど近いカミントウ壕のあった場所は、土地改良整備が行われ、壕 の記憶を残すものは何も残っていない。体験者に教えてもらわなければ何も分からない場所に「集団自決」の真実が眠り続けている。

琉球新報20070612
<強制された死 「軍命」削除検定のはざまで>1より

 
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糸満市カミントウ壕
ためらいなく命絶つ

「ごめんね、ごめんね」。玉城澄子さん(75)=糸満市=は死体を踏み越えて、血だらけになりながら壕(ごう)の外へ出た。壕の外には、片目をえぐられた 幼なじみ、内臓が出た人…。足がもげて大声を上げて苦しんでいた少年は、やがて動かなくなった。地獄のような状況だった。
糸満市米須のカミントウ壕、1945年6月21日の朝。自然壕の中では百人以上の米須の住民が身動きができないほどびっしりと身を寄せ合っていた。「デ テコイ、デテコイ、タベモノアル」。米軍の不自然な日本語での投降を呼び掛ける声が何度も外から聞こえてきた。しかし、壕の中にいた住民の誰一人として、 呼び掛けに応じて外に出るものはいなかった。米軍に捕まれば殺されると日本軍に教え込まれていた住民は、投降して生き延びるという選択肢を持ち合わせるこ となく、ただ、ただ暗闇の中で声を押し殺したまま身を潜めているだけだった。
その後、米軍の呼び掛けが止まった。周囲に静寂が戻ったと思った途端に突然、砲弾が一発、壕の中に撃ち込まれた。14歳の少年が即死した。砲弾が撃ち込ま れたことで、壕の入り口付近にいた日本兵2人がまず自決した。それが引き金となって、住民による「集団自決」が連鎖的に始まり、多くの家族が次々と手りゅ う弾の信管を抜き、命を絶った。手りゅう弾を持っていたのは、家族の中に防衛隊として日本軍から渡されていた男たちがいたためだ。
玉城さんの15歳の兄は防衛隊に召集されたが、帰ってこなかった。「兄が戻ってきていたら、わたしたち家族も危なかった」。玉城さんは複雑な表情を浮かべる。
「集団自決」の状況を玉城さんは「あんなに何のためらいもなく、連続して一気に信管を抜いたのは、何らかの命令があったのではないか。もし、手りゅう弾を自由に使っていいと軍が渡していたならば、あのような状況にはならなかったはずだ」と振り返る。

徳元幸子さん(74)=糸満市=は「集団自決」で破裂した手りゅう弾の破片四個が今も右手の甲に残る。その手をさすりながら「死ぬまで自分にとっての戦争は終わらない」と話す。
徳元さんは戦後、5人の子、11人の孫、6人のひ孫に恵まれた。「生きていてよかった」と、生をかみしめる。その半面「戦争体験者がいなくなったら、知らず知らずのうちにまた戦争になるのではないか」と不安を覚えている。
玉城さんも「歴史は繰り返す。戦争の恐ろしさを語り継ぐのは生き残った者の使命」と話し、体の続く限り沖縄戦の真実を語り続けることを誓う。

琉球新報20070613
<強制された死・「軍命」削除検定のはざまで>2より