宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

文科省命令!軍の集団自決関与を教科書から消せ!

教科書検定に関し伊吹文明文科相

文科省の役人も、私も、安倍総理もこのことについては一言も容喙(口出し)できない仕組みで教科書の検定は行われている」

と発言し続けてきたが、文部科学省

沖縄戦の実態について、誤解するおそれのある表現である」

という「意見書」を、「教科用図書検定調査審議会」に出していたことがわかった。

文科省が削除要求「集団自決」修正軍関与の記述部分
沖縄タイムス=07.6.15)

Sidouその意見書通りに、審査会の答申は出て、来年使われる高校生の歴史教科書から「集団自決」への日本軍の関与を示す記述が消された。

アベ政権の目指す「美しい国」づくりの一環である。
何が起こっているのかを、しばし考えてみる。

今年の4月25日の衆院教育再生特別委員会でも、イブキ文科相は、この問題を掘り下げて追求する民主党川内博史議員とのやりとりの中で

私が積極的に、そのどちらがいいとか悪いとか言う、もし大臣が言えばですよ、これは怖い国になるんですね、日本は。そういう国であってはならないと私は思います。

美しい国イコール「怖い国」であることを、イブキ大臣は自ら告白している。
狭義のナントカはあったけど広義のナントカはなかったみたいに、住民が集団で死ぬ(殺しあう)という狭義の「集団自決」はあったけど、軍隊の命令により住民が集団で死ぬ(殺しあう)という広義の「集団自決」はなかった。と、アベシンゾーは得意の狭義広義という、国際的には一切通用しなかった、アベレトリックを使うのかもしれない。こんなバカに権力を握らせてしまった、自民公明を許してはいけない。

もし民主党政権ができて、川内さんが文部科学大臣になられて、検定教科書について、こうだ、いいとか悪いとか言われる日本では、私は子供を小学校へやりたくありませんね。

イブキ文科相の、このクチの軽さはなんだろう。国民をなめきっているから、こんな発言ができるのである。全国の小学生の親たちから、この大臣発言を根拠に子どもを小学校へやらないボイコット運動が起きたら大臣の首が飛ぶぐらいではすまない。

「新しい歴史教科書を作る会」が、沖縄の集団自決に関する記述を削除する独自の歴史教科書を編纂し運動を始めたのは2005年。わずか2年余で、文科省意見で、すべての歴史教科書から集団自決に関する日本軍関与の記述が消えていく。

恐ろしくてかなわない。テーシタオクニダ。

ありったけの地獄をぶち込んだ戦いと米軍にも言われた沖縄戦では、日本軍により住民が避難しているガマを追い出されたり、赤ん坊が泣くからといって殺すよう指示されたことは、体験者の証言もある。もちろん、そのような日本軍に積極的に呼応する住民もいただろう。教育によりつくられた価値観の中で、死を選ぶべきだと思い込む住民がいただろうことは想像に難くないし、そのような民衆の証言を記録したルポルタージュも論文もある。

曽野綾子の『ある神話の背景』は、隊長命令の有無を巡って、その存在を立証できないのだから軍の関与は無かったとするレトリックである。 隊長命令の有無が定かでないからといって、「集団自決」に軍の関与が無かったかとは断定できない。だからといって軍の関与があったとも断定できないでしょう、などと、すべての判断や事実を宙吊りにして捨ておく。

しかし、軍隊が持っている手榴弾を使って民間人が自爆するのに、軍隊の関与はなかったと、どうしたらいえるのだろうか。民間人が軍隊から泥棒したとでもいうのだろうか。軍の関与がどうのこうのを、なんか難しそうな言葉遣いでエラソウなことをのたまっているが、くだらないこんなレベルの言い争いである。

ウチナンチュは死んでまでもウシェーられて(バカにされて)、何度でも殺される。ウチナンチュの何が、万死に値するのか教えて欲しい。ナカイマやブヒを首長にするからか、しかし、そんな連中を首長にしなければ、まともに統治できないほど沖縄に加重に安保の負担を押し付けているのはお国であり、国民大多数のみなさまでしょ。もう情けなくって情けなくって。

軍の関与を認めることで、軍隊に行ったおじいちゃんや、愛する人を守るために命を賭して闘った人々みんなが貶められていく。そんな気がして、一生懸命つくる会系の参考文献を勉強してネットウヨクなどとよばれる存在になった子たちもいるだろう。そんな子たちが守りたい人の尊厳と名誉のために言っておくが、軍隊の行為と、兵隊になった人ひとりの行為は必ずしもイコールではない。特攻隊でむざむざ死にに行く若者たちが、国を守ろう愛するものを守ろうと思った純粋な気持ちは存在している。そのような若者の純粋な思いにつけこみ、「お国のため」などと命令して殺すシステムが間違っているのである。その間違いを正すためには、歴史から目を背けてはいけない。沖縄戦における「集団自決」に軍の関与が無かったかのようにすることは、軍そのものの本質を覆い隠し、その本質のために誰かを殺すことにしかならない。

曽野綾子は、沖縄の「集団自決」についてこんなことを書いている。

紀元一世紀のパレスチナ地方は、前世紀の中ごろからローマ人の占領下にあった。小競り合いは度々あったが紀元66年に起きたユダヤ人の反乱は大規模なものとなった。
その時、死海のほとりに屹立する人口の要塞マサダに立てこもったユダヤ人たちは、ここをただ一つの前哨として、実に紀元73年までこのマサダを死守したあげく、降伏か死かのいずれかを取ることになった時、全員集団自決を遂げたのである。
「光栄の死は屈辱の生にまさるものであり、自由を失ってなお生きながらえるという考えを軽侮することこそ、もっとも偉大な決意である」
としたのである。ヨセフスはマサダ陥落とローマ人の入城の模様を次のように書く。
「かくしてローマ人たちは、多数の死者に出会った。それは敵ではあったが、彼らはそれを喜ぶことはできなかったし、またそれほど多くの人々が、かような行動をとることによって示した決然たる勇気と死に対する不動の軽蔑とを、感嘆するほかなかったのである」
彼らの自決の方法を書いたと思われる陶片には次のように記されていた。
「それから彼らは、他の者たちを殺害するために、籤で十人の男たちを選び出した。他の者たちは地上に身を横たえ、各々その妻や子供たちの傍らでかれらを腕に抱き、籤でこの悲しい務めを果たす男たちの一撃の前に、首を差し延べたのである。そしてこれら十人が、恐れることもなく他の者たちを殺害し終えたとき、かれら自身も同じ仕方で籤を引き、当たった者がまず他の九人を殺害してから、最後に自決することにしたのだった」

イスラエルでは今でもこの地を民族の歴史の誇りとして扱う。国賓死海から400メートルも高いこの要塞の上にヘリで運ばれる。新兵もここで誓いを立てる。同じような悲劇を持つ沖縄では、自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。

「正論」平成15年9月号掲載

長々と引用したけど、曽野綾子って、『ある神話の背景』以外まともに読んだことないけどバカなんですか?
沖縄は《マサダ》(日本は本土決戦を引き伸ばすために、沖縄を前哨の“マサダ”にしたかもしれないが)ではないし、アメリカは《ローマ》ではない。曽野にとって日本人は《ユダヤ人》かもしれないが、沖縄はユダヤ国の一員ではあっても《ユダヤ人》ではない。《ユダヤ人》たる曽野が、沖縄に《ユダヤ人》として死ねというのか。《ユダヤ人》に強要されたその死を誇り高いものとして受け止めろというのか。なに考えてんだかこのババーは。

こんなもんである、この人たちの心性は。アベシンゾーも、イブキもキュウマも、みんな御同様である。

人に与えた痛みを我が物にする想像力や心性を持たない傲慢な連中。どこの世界にでもいるだろうが、この国では、そんな連中が権力を握り、行政を動かしている。
美しい国」などというわけのわからない標語にあわせていえば、美しいと感じる心性そのものが問われてしかるべきである。こんな心性がいびつな連中を、適切に権力から遠ざけることでしかそれはつくれない。

参院選、どうなるか。やたらいろんな争点を出して拡散することは得策ではないだろうが、私は沖縄の地から、このような歴史を隠蔽する国家体質への否定としての投票行動も思う。
沖縄県議会の最大会派自民党は、とうとうこの件に関する反対意見書決議に賛成する意向を固めた。まぁ、決議に賛同することを揶揄する気はないが、ここまで議論を引っ張って世論の様子見をした自民党県連に対して、同じウチナンチュとして情けなく思う。

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地道にマイペースで沖縄で起きていることを、できるだけ多くの日本語を読める人々に伝えていきたいと思います。