宮城康博blog

沖縄・自治・徒然…Ten Thousand Light-Years from Home

当事者性と地元考

先週沖縄を離れた直後に報道されていた、辺野古に関する記事が気になっていた。
仕事の手を休めて、しばし考えてみる。

決議撤回で公開質問 普天間代替辺野古有志
琉球新報=07.6.1)

辺野古行政委員会が反対決議撤回という問題(07.05.01)に対して、同区有権者の10分の1にあたる112人の有権者賛同署名を添えて、区民有志が区長と行政委員長に対して公開質問状を出したというニュースである。

Nagasimanite

私は、《ガンバレ区民有志!》と無責任に煽ったり、訳知り顔で《こういうこともあるだろう、しかし》などと捨象する気もない。

もういちど地元と当事者性について考えるために、いままで書いたものを振り返り整理しておきたい。
(以下長文御免)

写真は辺野古沖に浮かぶ長島での愛する我が子たち。

一昨年の2月に私は書いていた。

新基地建設問題は経済問題になって久しい。
建前や本音などという言葉の分け方が、弱い私たち人間をオ ブラートで包む機能はこの街では失効している。裸のまま、ささくれ立った心で、私たちはさまよわされている。
この問題を乗り越え、地域が、地域として再生 していく歩き方からはじめよう。地域には、いろんな考え方の人がいる。当然過ぎるほど当然の前提を、私たちは受け入れて、歩み寄り、生きていかなければな らない。「民主主義」の根幹には信頼が埋め込まれる。名護市民として、97年の住民投票で歩き始めた道のりは、続いている。
さてさて(05.02.04)

あれから、2年余の間に何が起こったか。昨年初頭には名護市長選挙があり、「当然の前提を受け入れ」共闘して隘路を切り開くことを拒否した方々により、ブヒ氏が市長に当選するという結果を招いてしまった。選挙結果が出てしばらく後に、私は書いている。

マスコミの世論調査や出口調査等をみると、東海岸地区で沿岸案容認・後継市長支持が多い。この現状をどう考えるべきなのだろう。人口の少ない東海岸地区の 投票行動が、選挙や重要な意思決定に即座に大きく影響することはないが、「地元」と呼ばれる地域の人々の意思は大きな影響力を持つことになる。
おそらく、今後も、新市長は「地元」の意思を優先し、県は「地元」である名護市の意思を優先し、という構造を継続するだろう。国もまた然りであるが、状況 は少し変化している。地方公共団体としての市や県が反対しても、国は国の専権事項として行うような発言を繰り返している。市が反対しても、「地元」が容認 するなら、その「地元」の理解を梃子に、物事は進捗し、市という地方公共団体も「地元」の意思を尊重し、加担していくという構図が生まれる。相変わらず大 問題を小さな地域に押し付け、事が成されていくという構図だが、その信念や行動規範に何ら期待できない新市長の下では、さらに惨い形で「地元」が剥き出し にされていくような気がする。
地元考(06.02.08)

ブヒ氏は、誰もが想定できた通りに《地元》を前面に出して、ブヒ字形案での合意も、そのブヒ字滑走路の移動も主張していく。
その後、米軍の双方向飛行発言など様々なことで、《地元》へ配慮した合意などという、薄っぺらな根拠は溶解していく。そのつど、ブヒ氏らは憤りをクチにする。

この人たちは《騙され》たのか? そうではないのではないか?
《騙され》たのではないとしたら、この憤りの表明はなんだろう?
自 らの生活領域を守る《最低条件》が守られるはずなどないことは、不平等きわまる地位協定を改定せず運用改善で済まし続ける政府の意思や、来沖した米国政府 関係者が「移転先の基地周辺が都市化することがあってはならない」とする発言や、さまざまな事例が嫌というほど教えているではないか。
それでもなおかつ受け入れたのは《振興策》欲しさであり、それは施しを成す側(日本政府)への《隷属》以外のなにものでもない。

Nukagayoshikazu_2《隷 属》は、人々の誇りや物理的な生活環境やさまざまなモノゴトを犠牲にする。そのような犠牲を《主体的》に選択することは、他に選択肢が与えられない奴隷の 選択でしかない。奴隷でないと言い張るには、《最低条件》が守られると《主体的》に判断した風を装い続けなければならない。そのような擬態への回路を開い てくれたことに感謝して、名護市長は両手で防衛庁長官の差し出された片手を握るのである(写真)。
名護市長たちの大好きなブヒ字滑走路は、その時点での意思決定のありようを《主体的》に粉飾するだけの奇策でしかなかった。
騙され》考(06.11.11)

ブヒ氏らの憤りを政府防衛省は正しくも適当にあしらい続ける。「正しくも」という私の評価が正しいかどうかはわからない。しかし、ブヒ氏らの主張が地元の意見としての正当性を有しているとは私には思えない。ここではすでに何かが壊れている。壊れていることがらを壊れていない真性の地元の意見として取り扱うことは正しくないだろうという程度の意味の「正しくも」である。

2002年、軍民共用空港の「位置」が問題になっていた。
岸本市長が「リーフ上」を決断し基本計画は合意されたが、その決断に対して地元(辺野古・豊原・久志)が一任を与えていたかについて、議会ですったもんだしたことがある。
結局「一任」はなかったという事実が明らかになり、あったかのように答弁した助役が始末書のような謝罪文を提出して事態は収拾された。
議員としてのわたしは、その議論の過程で、「リーフ」や「平島」「長島」などが、地域住民にとってどれほどの価値を有するものなのか、様々な事柄を指摘した。
辺野古選出のケンユ議員も、住民の思い入れということについてはなんら反論せず、「リーフ」破壊は極小化する「平島」「長島」は手をつけさせない、それが不文律のように共有された時期がある。
名護市長辺野古の推進派の方々は、とうとうそれらも投げ捨てた。

    V字「長島近辺まで」 名護市長、修正幅を明示(琉球新報
    名護市長「長島含んでいい」/普天間代替施設(沖縄タイムス

騒音懸念を口にするが、そのような修正で騒音懸念はどれほど回避されるのだろう。
いずれにしても、海兵隊が欲しているのは24時間軍事空港であり、MD訓練もできる海上に開けた場所であり、大型船が接岸できるバースを有す軍港機能である。
軍民共用や使用期限や、“せめてもの条件”をかなぐり捨てた名護市は、転がるように落ちていかざるえない。
人々が守ろうとしたもの、守ると公言していたもの、それをかなぐり捨てるために自らに言い聞かせる言葉、いろんなことに思いを巡らせながら、私の憂鬱は深くなる。
転がるように(07.01.13)

そんなふうに状況が推移する中で、政府は決まり文句のように「地元の意見に耳を傾けて」という台詞を繰り返し続ける。

名護市では、世論調査では大多数が反対しているが、選挙で選ばれる代表は、違う意見を有している。そんなこんなで、もう10年も経過しようとしている。政府が聞くとする「地元の意見」は、首長に集約される。政府にとって首長の意見が地元の意見である。
私の知っている名護市の幹部は、この基地建設を「大型公共事業」と言って憚らなかった。しからば事業で喪失する公共性の大きさを図ることで、立地・ 誘致に無理があることに気づいてもらおうと思ったが、「自然か人か」という屁理屈を言い出す。この場合の人は、大型公共事業で地域振興を進め束の間の経済 活性化によって生きようとする人のことであり、良好な自然環境・生活環境を失い内なる自然をも破壊し塗炭の苦しみを味わう人のことではない。しかし、人は その両者でありうる。
押し付けられ、出口をふさがれ、恫喝される中で、人々の意識は揺れ動き続ける。長い年月の間には、言葉にできない慟哭の夜もある。心震える希望を手探りする朝もある。
押し付けている人々に、「地元の意見」をよく聞く事はできないだろう。
地元の意見(07.01.30)

名護市の沖合移動主張の「地元の要望」という根拠がはなはだ薄いことは指摘され続けているが、この数週間の間の新聞報道で、名護市幹部が辺野古区に対して沖合移動要望決議を行なうよう求めていたことも区長のクチから明らかになっている。今後の政府とのカネの交渉に支障が出るという理由で、決議をしなかったことも。(沖縄タイムス=07.05.30

このような状況の中で、区民有志が公開質問状を出した。これを画期とみることもできるだろう。しかし、私は過度に、基地建設に「反対」する自身の心情からこの動きを持ち上げることはできない。これは辺野古区の地域自治の問題として、区民有志の方々の動きに敬意の念を持ちつつ、動向を見守るべきだろう。当事者を辺野古区民にして自身を応援団にするわけにはいかない。
基地建設問題はすでに違う次元に移っている。当事者は辺野古区民だけではない。

沖縄への基地建設問題について、基地から生活の糧(収入)を得ている沖縄の人々や基地による振興発展を切実に期待する地域の人々がいる、だから軽々と口にできない行動できない。とおっしゃる方々がいる。
もっともそうに聞こえるが、それでは、米軍のイラクでの殺戮や様々な行動に対して、米国には軍産複合体があり大勢の人々がそこから生活の糧を得ているので、反対を口にできない行動できないとおっしゃるだろうか。私には何を言っているのか、あまり理解できない。

一見、沖縄の生活者に配慮しているようでいて、それは配慮ではなく、生活の糧を基地に頼る社会的構造を放置ないしは消極的に押し付けているのではないだろうか。
だれもが当事者である。わたし(自身)はいかなる形での加担を、役割を担っているのかを問うべきである。きれいごとで自らを特権的安全圏に置くのは卑怯だと知るべきであろう。

軍事問題や経済問題など様々な理由はもっともであり議論は必要だろう。自身が信じる平和主義からの主張も重要だろう。正義感から英雄的肉体行動に酔うこともあるだろう。
しかし、普通の生活者が普通におかしいと感じていることを、やたらむずかしい理屈でわけわからなくすることに私は加担したくない。ことはもっともっとシンプルである。

あらゆる議論の入口は、沖縄へのアンフェアをフェアなかたちにすることからだ。
もう半世紀以上も、ここから先へステップは踏み出せていない。
我々のこの問題への態度、思考、言葉の現在は、胎盤剥離を起こしていないだろうか。

アンフェアを糊塗するために、政府権力は歴史教科書を書き換え、「沖縄」の自民党は異議申し立てを放棄する。半世紀以上も進めないどころか、政府及び政府協力者たちは消しゴムで幾多の民衆の証言で到達した事実認識を消して、都合のいい歴史に換える沖縄処分をドラスティックに進行中である。

バベルの混乱のように言葉が意味を喪失してどこにも行き着かない。人々の精神の営みや歴史と切り離され、どこにも結びつかないで浮遊することばは、私たちの精神の酸欠状態がもたらす結果であり原因である。私たちの個々の実存が持つ当事者性も現実との結びつきを希薄化し、存在の耐え難い軽さの中で浮遊する。

当事者性を自身に引き戻すために、私たちはいまなにをなすべきだろうか。


う~ん、とりあえず今は、目の前の仕事を終わらせることに集中しなければ:)
私もまた、空気の底で地を這う生活者である。一週間のシワ寄せはキビシー



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